エレミヤ12:1 正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
12:2 あなたが彼らを植えられたので彼らは根を張り育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く腹ではあなたから遠いのです。
12:3 主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し殺戮の日のために取り分けてください。
12:4 いつまで、この地は乾き野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う。「神は我々の行く末を見てはおられない」と。
12:5 あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるならどうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのならヨルダンの森林ではどうするのか。
12:6 あなたの兄弟や父の家の人々彼らでさえあなたを欺き彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな彼らが好意を示して話しかけても。
預言者エレミヤは、この世の人々があまりにも不正と悪に満ちているにも関わらず、神はどうして彼らを裁かないのかと訴えています。
そして、5~6節の「あなた」とは、もちろん、エレミヤであるはずなのに、そのエレミヤに対して、エレミヤ自身が語りかけるかのように語られているように、それはもはや、つぶやきを通り超えて、いつしか神様の目線で、神様に成り代っているかのような表現へと突き進んでしまうのです。
試練の中にある人にとって、このような経験は思い当たるふしがあるかもしれません。
というより、人がつぶやき、神に窮状を訴えかけているとき、おおよそ、自分の思いや願いのほうが神に勝っているかのように、あたかも自分のほうが神より正しいかのように思ってしまいがちなのです。
しかし、それが全て「悪」というのなら、誰も神に祈りを捧げることなどできなくなってしまいます。
神に訴える事は悪い事ではない。しかし、己を神よりも上と考えるとき、そこには必ず罪があるのです。
では、その罪人の祈りは実際に神に届くのか。
そこにイエス・キリストの十字架の贖いによるとりなしの必要性があり、意味があるのです。