1コリント8章7~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1コリント8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。
8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

偶像に備えられた肉を食べるべきかどうかの判断の基準を、他者への配慮という視点に置くことは、とても聖書的であると言える。
もちろん、それだけを優先させるのも問題があるが、何を食べようが、何をしようが、自分の信念に基づいて行うことは、主を証していく者として重要なことであろう。
イエス様の御業自体がそれを証している。
イエス様はご自分の信念に基づいて生き抜かれた。
他者への愛と配慮に基づいて、それをこの世に証するために、御自分の命を捧げられた。

偶像に備えられたものを食べてもいいか、あるいは、酒は飲んでもいいか、焼香は行っても良いか、様々な判断は、イエス様によって救われ、それを世に証していくために用いられる私たちにかかっている。
願わくは、どちらを選んでも、主の救いを証していける、そのような者でありたい。