ヨハネ11章45~57節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨハネ11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

聖書には、大祭司カイアファの預言は、彼が自分の考えを話したのではなく、神のことを預言して言ったのであると語られています。
このことは、彼がイエス様のことを信じて、正しくイエス様のことを言い当てたというよりも、単にイエス様を殺すことを正当化しようと考え、思いつきで口から出てきた言葉であったのでしょう。
なぜなら、彼の心の内に、国民が救われることを願う思いなどなかったからなのです。
それは他の祭司たちも同様であったようです。つまり、多くの祭司たちが、国民のためなど少しも考えず、ひたすら自己保身に走っていたからこそ、人々の人気を集めていたイエス様を殺そうと考えていたのですから。

おおよそ、人間の考えることは、神様の御心に反することが多いものです。
そして、そのままでは、滅びへと至る道に通じるものです。
しかし、主なる神様は、それを願わず、自分の身を顧みることなく、十字架で御自分の御子イエス様の命を投げ出され、そして、他人である私たちをお救い下さったのです。
神に反し、そのままでは滅びへ至る者が救われるのは、唯一、このお方の御業を置いて他にはありません。

ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

己の欲望に支配され、ひたすら自己保身を企む滅びの人生から、この救いの約束に信頼する人生へと導いて下さるよう、聖書の御言葉に聞きつづけて生きたいものです。