ヨハネ5章1~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨハネ5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。

38年もの間、病気で苦しんでいた人は、「良くなりたいか」とのイエス様の問いかけに対し、自分も池の中に入りたいのだが、誰も入れてくれる人がいないと言い、癒されないのは、周りの人間の愛のなさによるものであると言わんばかりの言い訳をしている。
一方、この人が癒されたのが安息日であったために、イエス様を律法を破る者として迫害しはじめたユダヤ人たちも、自分たちの古い掟や慣習に縛られて、目の前で起こっている現実を受け止めようとしない。
どちらも、長い年月をかけて、凝り固まった心のありようをみることができる。

一つところ、同じ働きを何年も続けていると、考え方が凝り固まってしまい、自分の考え、経験が絶対のように思ってしまう。
しかし、そこからは、決して新しい発想やアイデアは生まれてこない。
新しい時を迎えるならば、心を打ち砕かれる必要がある。

イエス様から与えられる新しい命。
その命を受けるために、古い自分を打ち砕いていかなければならない。

ローマ7:6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。