ホセア9章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ホセア9:1 イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫しどこの麦打ち場においても姦淫の報酬を慕い求めた。
9:2 麦打ち場も酒ぶねも、彼らを養いはしない。新しい酒を期待しても裏切られる。
9:3 彼らは主の土地にとどまりえずエフライムはエジプトに帰りアッシリアで汚れたものを食べる。
9:4 主にぶどう酒をささげることもできずいけにえをささげても、受け入れられない。彼らの食べ物は偶像にささげられたパンだ。それを食べる者は皆、汚れる。彼らのパンは自分の欲望のためだ。それを主の神殿にもたらしてはならない。
9:5 祝いの日、主の祭りの日にお前たちはどうするつもりか。
9:6 見よ、彼らが滅びを逃れてもエジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ天幕には茨がはびこる。

聖書には、偶像を慕い求めることは、姦淫の罪を犯すことであるとはっきりと語っている。確かに、姦淫よって得られる報酬は、欲望を満たすことに他ならず、言い換えるならば、人は己の欲望を満たすために偶像を作り、それを慕い求めるふりをしているだけなのだと言える。
しかし、それがいかに恐ろしい結果を招こうとしているかということについては、目を開こうとしない。
十戒の中にも姦淫を犯してはならないとの戒めがある。
しかし、それは、第一の戒め、第二の戒めなどに語られているように、真の神以外のものを拝んではならないということに通じる戒めであるということを覚えなければならない。
己の肉の欲望を満たそうとする者は、己を神とする者。
自分の力で自分の救いを達成することができるのなら、己を神とするのも構わないが、それができないからこそ、私たちを救い得る真の神が必要なのではないだろうか。