使徒2章36~47節、1ペテロ1章17~21節、ヨハネ20章24~29節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

使徒2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

ここに記されている表現に注目してみると、主なる神様が、十字架の御業を成し遂げられ、よみがえられたイエスを主とし、またメシアとなさったと言う事から、イエス様が主であるということとメシアであるということには、若干、ニュアンスに違いがあるのかもしれない。
メシアとは、すなわちキリストのことであるから、言い換えれば、救い主ということである。もちろん、救い主という言葉自体にも「主」という言葉が含まれているから、同じことなのかもしれない。
しかし、あえてわざわざ「イエスを主とし、またメシアとなさった」と記されているのだから、イエス様が主であり、メシアであるという事実について考えてみたい。

1ペテロ1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

1ペテロ1章の御言葉によると、私たち人間は、天地創造の神によって創られ、そして、神の御子キリストの尊い十字架の贖いの血によって救われたものであるということが語られているといえる。そういう意味では、主とは神様、メシアとはイエス様のことを指しているようにも見える。
しかし、その神様がイエスを主とし、メシアとされたというのならば、このイエス様こそが天地創造の主なる神様と等しいお方であるということでもある。
しかも、ここに記されている事柄は、「イエス様が十字架の贖いとよみがえりの御業を成し遂げられたから、この方を主とし、メシアとした」と神様が仰せられたというのではなく、むしろ、「十字架の贖いとよみがえりの御業を成し遂げるために、この方を主とし、メシアとして遣わした」という意味合いを持っている表現であり、神様の御心の現れとして、主であり、メシアであられるイエス様が十字架とよみがえりの御業を成し遂げられたのだということが語られているのである。

ヨハネ20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

トマスは、よみがえられたイエス様と出会い「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白している。これ以上ない、完璧な信仰告白の言葉であると言えるのではないだろうか。
わが主、わがメシアなるキリストの神は、十字架にかけられて殺され、三日目によみがえられたイエス様ただお一人である。
この方の御名に信頼して歩む者に、主であり、メシアであられる神の祝福が豊かにありますように。