ヘブル9章23~28節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヘブル9:23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。
9:24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

イエス様は、かつて、祭司たちがたびたび捧げていた贖いの犠牲を、御自分のかけがえの無い命をもってお捧げになられ、それによって、永遠の救いを完成されました。
この個所でも、そのことが語られているのですが、この「ただ一度」という言葉は、その重みを十分に物語っている言葉であると言えるでしょう。

私は趣味で写真を撮りますが、時々フィルムカメラで撮影することがあります。
失敗しても、簡単に取り直すことができるようなデジタルカメラと違い、シャッターを押すときは、より慎重になります。
しかし、そもそもシャッターチャンス自体、本来は一瞬なのですから、そういう意味では、デジタルもフィルムも、チャンスは一瞬、ただ一度だけであるということを思う時、その時々、一瞬一瞬を大切に写し撮って行くことは、とても意味あることだと思うのです。

たった一度の時。
しかし、その時は、もう二度と繰り返すことは無い。
しかし、それゆえ、その時の重さがある。

イエス様の十字架の贖いも、二度と繰り返されることのないものであるからこそ、永遠の贖いが完成されているのであり、その救いの確かさという重みを感じながら、「成し遂げられた贖い」を覚えるためにも、過ぎ去った時を忘れぬように写真を見るように、イエス様の十字架の御業を、いつでも思い出す者でありたいと願うものです。