日時:2006年10月1日
聖書箇所:出エジプト1章1節~2章10節
今週から、成長の単元が出エジプト記の学びに入ります。出エジプト記には、主なる神さまがエジプトの国で奴隷の民となっていたイスラエルを救うためにモーセを召し、彼を用いることで、奴隷からの解放、そして、神の契約の民としての歩みが始まっていきます。
そして、今回のテキストでは、神に選ばれたモーセの出生について取り上げられています。
当時の背景については、1章7~10節に記されている通り、エジプトの人口をしのぐほどにイスラエルの民が増えたということに危機感を抱いたエジプトの王パロが、イスラエルに新たに生まれてくる男の子の命を制限しようとしたということが伺えます。
なぜ幼子なのか、しかも、なぜ男の子だけなのか。
当然、反乱が起きる場合を想定し、成人男性の数が増えすぎないようにとの考えがあったからでしょう。
しかし、労働者の数を減らすわけにもいかないため、生まれてきた男の子の赤ちゃんだけを殺せとの命令は、少々あいまいな命令を含んだ政策であったのではないかと思うのです。
というのも、ヘブル人の助産婦の言い訳には、そのあいまいさをついた表現が見受けられるからです。
出エジプト1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
彼らの言い訳は、実に巧妙です。
というのも、パロの命令は「産み台の上を見て、もしも男の子なら・・・」と、実際に分娩の場面に立ち会った場合を想定しており、立ち会う前に出産してしまった場合には、この命令の範疇ではないと見て、自分達が行く前に生んでしまうと言って、生まれてしまったあとの男の子についてはどうすることもできないとの立場を表明しているのです。もちろん、本当は出産に立ち会っているのかもしれないのですが・・・。
さらに、このままではどうにもならないと考えたパロは、生まれてきた子どもについても、男の子はナイル川に放り込むようにと命じるのですが、どうしても自分の息子を殺すことはできなかったモーセの母親は、パロに命じられた通り、ナイル川にモーセを流しているのです。ただ、瀝青や樹脂で塗られたかごに入れてですが。
もちろん、モーセの母親は、こっそりとモーセを流したことでしょう。しかし、一応は、生まれた子どもをナイル川に流したことには違いないのです。
この辺りの解釈になると、少々屁理屈のように思えるかもしれないのですが、なんとかして、どうにかしてでも子ども達を助けたいと願うヘブルの人たちの愛情と、わずかなチャンスでもあれば、命じられたことに反していない程度に生きようとする彼らの知恵のようなものを見ることができるように思うのです。
もともと「生まれてきた男の子だけを殺せ」とのパロの命令自体、反乱は困るけれども、労働力は必要だし、ある程度の大人の男性は必要との身勝手な考えから発令されたものであるため、このようなチャンスが芽生えてきたのかもしれません。
しかし、その中で、生き続けることのできる可能性は、ほとんど無かったことでしょうし、ほとんど可能性が無い状態の中で救い出され、召されていったモーセこそ、主の御旨の中で選ばれた者であったということなのでしょう。
人間の強欲と自己中心の中で、神の召しにより、愛と知恵によって支えられ生まれたモーセ。
もちろんそれは、モーセだけに当てはまることではなく、今生かされている私達にも、神の必要があって生まれてきたのだということを覚えつつ、子ども達にも、生まれてきた喜びを感じ取ってもらいたいと願うものです。