詩篇51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
この詩篇の表題には、ダビデがバテ・シェバのもとに行き、姦淫の罪を犯した時に歌われたものであるということが記されています。(詳細は2サムエル11~12章)
ダビデは、自分が犯してしまった罪の重大さを悟り、決して赦されない罪であることもよく理解していたようです。もはや、どうやって償うこともできない、忘れ去ることもできない、一生背負っていかなければならない罪の重さに、ダビデは、ただただ、神の憐れみを請い求めているのです。
詩篇51:16 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。
51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。
ダビデは神の御心を知る者でした。
そして、その御心とは「神はいけにえを好まれるのではなく、打ち砕かれた悔いる心を喜ばれるのだ」ということを。
王ともあろう者が悔い改めるということは、たいへん難しいことなのかもしれません。しかし、ダビデは、神さまの御前に悔い改めの祈りを捧げ、主の憐れみの故に、罪の赦しがもたらされることを願ったのです。
そして、それしか彼に生きる方法はなかったのでしょう。
詩篇51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。
私たちの生きる力も、神の憐れみによってもたらされる赦しの故に成り立つものであることを覚え、「打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心」で歩むことができますように祈ります。