日時:2006年9月10日
聖書箇所:マタイ13章1~23節
心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
聖書の言葉が生きていくのに必要不可欠な命の言葉となりうるかどうかは、まさに、聞く者の心の態度に関わる問題であると言えます。
イエス様がお語りになられたたとえ話も同様で、「種」は、畑にまかれ、そこで芽を出し、実を結んでこそ、はじめて「種」としての役割を果たすことができるのであって、道端に落ちてしまったり、岩地に落ちてしまえば、それらは芽を出すこともできず、種としての使命を果たすことができなくなってしまうのです。
いくら「種」自体に新たな命の息吹を生み出す力が備わっていても、それを受け止める側の態度によって、命に至るか、死に至るか、結果は全く異なってしまうのです。
イエス様がお語りになられた「たとえ」もそういう性質を持っていると言えるでしょう。信仰を持って聞く者には、このたとえが何のことを語っているのか、神の国の事として受け止めることができるのですが、信仰のない者にとっては、たとえ話は単なるお話であり、それ以上の意味を持たないものとなってしまうことでしょう。
ということは、いかにしてイエス様への信仰を養うかが問われてくるのかもしれません。
聖書の言葉を語る時、聞く人たちが信仰を持って聞いてくれるかどうか、それは、語る側の者が、まず信仰を持って受け止めていくことから始まると言えるでしょう。というのも、種をまく人が、こんな種が育つはずがないといって、適当に撒き散らしているのなら、どんなに良い種であっても、芽吹くことなどできないからです。種をまく者も、良い地めがけてまくはずですし、それが成長して実を結ぶことを願ってまくわけですから、私たち自身がそれを疑っていては、何も始まりません。
まず、種をまく者が信じる。そして、信じて種をまく。その延長線上に、まかれた種が芽を出し、成長していくことを信じて。