日時:2006年9月3日
聖書箇所:エレミヤ36章
本日の成長のテーマは「聖書は神のことば」というものです。
この表現は、聖書が確かに神様がお語りになられた尊い御言葉であり、私たち信じる全ての者に命を約束する、幸いな言葉であるということを示しています。
しかし、一方で、「ことば」であるという事実の故に、これを聞く者の態度により、「信じて」という方法以外、この言葉を受け止めることができないという不確かさも併せ持っていると言えます。
では、なぜ、神様はこのような不確かな方法をお用いになろうとなされたのでしょうか。
もっと、誰にでも受け止めることのできる影響力のある、驚くような力ある方法でお示しになられたのなら、全ての人が簡単に信じることができたのではないかと思うこともあります。
ところが、そのようなことはもう既に、神様は成し遂げられているのです。
そう、人となられた主イエス様、そして、その十字架の生涯と復活の出来事。
神様は、これ以上ないほどの方法で、ご自分の深い愛と憐れみの心を示し、私たちの救いの確かさをお示しになられているのです。
マタイ12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
イエス様がご自分をさして「ヨナにまさる」とおおせられたのは、もちろん、ご自分が神であられるということもさることながら、ヨナは、魚に飲み込まれた後、神様の助けによって陸地に吐き出されて助かったのであり、ヨナにしてみれば、全くの偶然というべきか、自分では何一つなす術もない状況の中、まさに「助かった」という感じなのですが、イエス様の場合はこれと違い、イエス様は自ら神の御力をお用いになられることで復活を遂げられたのであり、絶対にありえない死を打ち破り、全く新しい命を獲得なさったのです。ヨナがその後、人生の終わりの時を避けることができなかったのとは異なり、イエス様は、新しい命を得られたのです。
このことは、聖書において、さらには、歴史上の全ての出来事において、全く驚くべき力ある業であり、これ以上ないほどの喜ばしい出来事であるはずです。イエス様を信じる者には、イエス様と同じ、よみがえりの命、永遠に滅びることのない全く新しい命を与えてくださるという約束がなされているのです。
ですから、私たちが主イエス様を唯一の真の神として信じることはごく当然のことであるはずなのです。
なのに、人はなぜイエス様を信じようとしないのでしょう。
ルカ福音書16章で、主イエス様は、金持ちとラザロのたとえを用いて、人の死後の世界の様子について語られている箇所があります。
そこでイエス様は、金持ちの兄弟たちは、もし誰かが死後の世界からよみがえったとしても、決して信じようとしないだろうと仰せられ、信じる者は、既に語られている聖書の御言葉を聞いても信じるはずだということを語られているのです。
ルカ16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
このことは、非常にシンプルなことを私たちに示していると言えます。つまり、聖書の言葉を信じる者は、イエス様のなさった復活の出来事や永遠の命も信じることができる。しかし、聖書の御言葉を信じないものは、イエス様の御業も永遠の命も、信じることはできず、「信じる」ということは、事の大小を問わず、語られた言葉に信頼するかどうかにかかっているのであり、だからこそ、あえて神様は、聖書の御言葉を通して信じる者を救おうとされたという事なのでしょう。
1コリント1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
エレミヤを通して語られた神の言葉も、主なる神様の御言葉を聞いて、悪の道から悔い改めるかもしれないから、と言って、いかにも自信のないような方法で語られているようにも見えます。しかも、エレミヤを通して語られた言葉は、書記のバルクによって書き留められ、バルクがエレミヤの代理として王宮において語るという、いかにも非効率的な方法のようにも思える仕方で語られていて、預言者の言葉として尊敬されないまま、見向きもされなくなってしまうのではないだろうかという心配もあります。
しかし、たとえどのような方法、どういう人物が語る御言葉であったとしても、それが真実な神の御言葉であるならば、語られる場所、その方法などに捉われないで、真摯に神の御言葉に聞いていく信仰が求められているということなのでしょう。
聖書は神のことば。
それが仮に、誰が取り次ぐ言葉であっても、また、どんなに力強い語りかけがなされていなくとも、そこに語られている内容が、主イエス・キリストによる救いの約束であり、神の恵みの言葉であるならば、信じる心を持って素直に受け止めていく、そんな信仰者でありたいと願う者です。