エレミヤ3:6 ヨシヤ王の時代に、主はわたしに言われた。あなたは背信の女イスラエルのしたことを見たか。彼女は高い山の上、茂る木の下のどこにでも行って淫行にふけった。
3:7 彼女がこのようなことをしたあとにもなお、わたしは言った。「わたしに立ち帰れ」と。しかし、彼女は立ち帰らなかった。その姉妹である裏切りの女ユダはそれを見た。
3:8 背信の女イスラエルが姦淫したのを見て、わたしは彼女を離別し、離縁状を渡した。しかし、裏切りの女であるその姉妹ユダは恐れるどころか、その淫行を続けた。
3:9 彼女は軽薄にも淫行を繰り返して地を汚し、また石や木と姦淫している。
3:10 そればかりでなく、その姉妹である裏切りの女ユダは真心からわたしに立ち帰ろうとせず、偽っているだけだ、と主は言われる。
3:11 主はわたしに言われる。裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった。
旧約聖書では、真の神を信じようとせず、他の神々や偶像を礼拝することを、姦淫の罪に例えて語られています。
本来愛するべきものを愛そうとしない。それこそが、偶像礼拝の本質であると言えるでしょう。
ところが、ここには、その偶像礼拝の罪にも2種類の罪があり、北のイスラエルが犯した罪より、南のユダの犯した罪のほうが深いということが語られています。
北イスラエルは背信の罪、南ユダは裏切りの罪。
どちらも同じではないかと思うのですが、北イスラエルの犯した背信の罪は、文字通り、主なる神様に背を向け、真の神様以外の神々を拝もうとする行為であり、言わば「目に見える形での偶像礼拝」と言え、一方、南ユダの犯した裏切りの罪は、一見したところは神を礼拝しているように見せかけ、その実は他の神々に心を奪われているような偽りの態度を言うのでしょう。「目に見えない形での偶像礼拝」は、具体的に目に見える形で背信行為を行っている人よりも、さらに酷い罪を犯しているということなのです。
そこで、ふと私は考えました。
教会から遠ざかり、聖書の神様を信じようとしないで歩んでいる人は、背信の罪を犯すこと。一方、毎週礼拝に欠かさず通ってはいるものの、礼拝を休みがちな人を裁いたり、内面は強欲と傲慢で満ちているような人は、裏切りの罪を犯すことではないか、と。
あなたはどちらに属しますか?
「どちらでもないなら」というなら、それこそ、偽りの罪を犯していることになるのかもしれません。
1ヨハネ1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
大切な事は、私も背信の罪を犯し、裏切りの罪を犯している。しかし、主なる神様は、その私をお赦し下さるのだということなのです。
エレミヤ3:12 行け、これらの言葉をもって北に呼びかけよ。背信の女イスラエルよ、立ち帰れと 主は言われる。わたしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く とこしえに怒り続ける者ではないと 主は言われる。
3:13 ただ、お前の犯した罪を認めよ。お前は、お前の主なる神に背き どこにでも茂る木があれば、その下で 他国の男たちと乱れた行いをし わたしの声に聞き従わなかったと 主は言われる。
主なる神様が、慈しみ豊かな「赦し」の神であることを感謝し、主の御前に、私の罪をざんげいたします。