1コリント11章27~34節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1コリント11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

パウロは、「ふさわしくないままで」主のパンを食べたり、主の杯を飲むことを、「主に対して罪を犯すことになる」と言って戒めています。
しかし、「ふさわしくない」とはどういう状態なのでしょう。
日本語では、「ふさわしい」という言葉を聞くと、「~に価する」とか、どちらかと言うと、高尚な事柄を行うのに適した人、すなわち、高尚な人のような印象を受けるかもしれません。
そうすると、主の聖餐にあずかるためには、高尚で、りっぱな人でなければならないのでしょうか。
答えは、全くその逆であり、パウロがここで言わんとしていることは、主の聖餐にあずかるにに「ふさわしい人」であるかどうかということではなく、「ふさわしい方法」で与っているかということなのです。
なぜなら、この「ふさわしくないままで」と語られている言葉、「ふさわしくないまま(~する)」という風に、「食べる」とか「飲む」という動詞を修飾する副詞が用いられているため、「ふさわしい(人)」というよりも、「ふさわしくない仕方で(食べる)」という風に理解するべきなのです。
つまり、主の聖餐は、誰が食べても良いとか、誰が食べてはいけないとかいう類のものではなく、食べるためには、己の罪を自覚し、その罪のために主イエス・キリストが十字架で死なれ、全ての罪を赦してくださったことを信じ、そのイエス様の十字架が、この私のためであったということを信じて「食べる」のであり、それがおろそかにされたまま食べる事を「ふさわしくないままで」と表現しているのです。
私が主の聖餐にあずかるに「ふさわしい」者であるかどうかではなく、私のために主が死なれ、それによって、私の全ての罪が赦されているのだという聖書の約束を確信し、主恵みのパンとぶどう酒にあずからせていただきたいものです。