1コリント2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
パウロは、コリントの町で宣教した時、優れた言葉や知恵を用いることなく、大胆にキリストの十字架の言葉を伝えたと記しています。
このことは、私たちに、大きな希望と勇気を与えてくれます。
というのも、イエス様のことを伝えようと思う時、なんとかして知ってもらいたい、理解してもらいたいと思う余り、ついつい、難しい言葉を用いようとしてしまうことがあるのですが、聖書が語るところの救いの約束は、以外にも単純な事柄であるということを思わされるからです。
「神は愛である。そして、その神があなたを愛しておられる。その証がイエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しと永遠の命の約束である。」
たったこれだけのことなのです。これだけの事を伝えるのに、どんな知恵や技法が必要なのでしょうか。
昨日、ある教会員の方といろいろお話ししました。クリスチャンをずっと続けていると、何をしたら良いのか、自分が何をすれば良いのかわからなくなる時がある。でも、私がここにいて、教会での奉仕をする理由は、イエス様がそれをせよとおおせられるから、ただそれだけの理由。もっとシンプルに生きて行きましょう、とお互いに励ましあいました。
難しく考えると、難しいものです。でもシンプルに考えると、信仰とは、きわめて単純な事柄なのだと思います。
私はイエス様を救い主と信じます。アーメン。