マルコ11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
私たちプロテスタントの教会では、基本的に、誰が聖書の御言葉を語っても良いことになっています。緊急の場合には、洗礼を授けることも可能でしょう。
マルティン・ルターは「万人祭司」ということを主張し、ごく一部の人間だけが、教会の職務を担っているのではなく、全てのクリスチャンが等しく責任を負っていることを示してくれたと言えるでしょう。
しかし、そうすると、実際の教会における「牧師」という職務が必要なのかどうかという議論になるかもしれません。しかし、教会の働きとは、主イエス様を頭とする信徒共同体の働きであり、その権威が、すべて、主イエス様に帰せられ、すなわち、聖書の御言葉に権威があるということを思うならば、聖書を専門的に学んだ経験のある者が「牧師」として働くことは、教会において、唯一真の権威である聖書に従おうとする姿勢の故であると言えるのではないでしょうか。
物の考え方、捉え方、語る言葉、行動、全てにおいて聖書の権威に従い、聖書的であることを望みます。