創世記44章 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記44:19 御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、
44:20 そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。

44:30 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、
44:31 この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
44:32 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。
44:33 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」

ヨセフは、自分の母ラケルの子であるベニヤミンだけをエジプトに留まらせようと、ベニヤミンの袋の中に杯を忍ばせます。
しかし、他の兄弟たちも、末の弟ベニヤミンだけをエジプトに奴隷として引かれていくことは、父イスラエルの心労を思う時、決してできないことであったのでしょう。彼らからすれば、全く心当たりのないことですし、ひょっとしたら、誰かに濡れ衣を着せられているのではないかという疑いもあったことでしょう。
ともすれば、ヨセフに対し、自分たちは潔白であるということを訴え、逆に、ヨセフが仕組んだ罠ではないかと詰め寄りたくなるケースだと思うのですが、彼らには飢饉の際に助けてもらったという恩もあるし、無謀な応答をすることはできなかったはずです。むしろ、かつて、自分たちがヨセフを売り飛ばしたことの罪を自覚し、何の言い訳をすることもできない者であることを示されていたことでしょう。
しかし、このままでは、父イスラエルのことが心配だし、エジプトの大臣であったヨセフも、故郷の父のことを度々尋ねたりするなど、親子の情については理解のある人物と思い、故郷に残してきた父イスラエルのことをヨセフに訴え、赦しを請おうとしたのでしょう。

私たちも、誰しもが、他人と意見が衝突する時や、もはや、どんな言い逃れをすることもできない状況に置かれる時もあります。そんな時、もうだめだと思ってあきらめないで、相手の人が、一体どのようなことに関心を持ち、どのようなことに重きを置いているのか、話し合いの中で見極め、そこから訴えていくことは、とても大切なことであると思わされます。
人間が違えば、生きてきた歴史や価値観など、違って当たり前。でも、だからこそ、相手の人が大切なことだと思っていることに耳を傾け、そこに同調していくならば、きっと、互いに理解を深めていくことができるだろうと。

イエス様は、私たち人間の愚かな罪の性質に対し「これはもうだめだ」「もう一緒には生きていけない」と言って、お見捨てにはなりませんでした。むしろ、そんなどうしようもない者のために、ご自分の命を犠牲にして、私たちを救おうとして下さったお方なのですから、いわば、最後の最後まであきらめようとはなさらなかったお方であると言えるかもしれません。

完全には理解しあえなくても、大切なことは、対話を重ね、交わりを保つ努力を重ねていくことかなあ、と今は思わされています。