イザヤ36:4 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。
36:5 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。
36:6 おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。
36:7 おまえは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む。』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『この祭壇の前で拝め。』と言ったそういう主ではないか、と。
アッシリヤから遣わされたラブ・シャケは、ユダの町々を攻め取り、いよいよエルサレムへと侵攻してきます。
その時、最後まで主なる神に寄り頼もうとしていたユダの王ヒゼキヤに対し、ラブ・シャケは、神を冒涜するような言葉を用いて、アッシリヤに屈服させようとしています。
しかし、ラブ・シャケの言っている事は、普通の人間にとっては、ごくごく当たり前のことなのかもしれません。口先だけの約束に頼り、祭壇を築いて、そこで礼拝を捧げている、いわゆる「目に見えないもの」に頼る行為は、いかにも不確かな力であり、神を信じない者にとっては、理解不能な行動に映ったことでしょう。
神を信じるということは、一般の人にとっては、きわめて異様なこととして映っているのかもしれません。そういう中で、信仰者に対して、迫害やののしり、侮辱の言葉が投げかけられることは、考えようによっては、ごく当たり前のことなのかもしれません。
しかし、だからこそ信じるのです。
2コリント4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
見えるものは、見えているもので完結してしまいます。しかし、見えないものは、失われる事のない、永遠の約束を伴っています。
私たちの信じる神様とは、そういうお方なのです。
ですから、たとえ世間一般の方に全てのことを理解してもらえなくても、大切なものを失わないために、「信じる者」であり続けたいですね。