イザヤ16章1~14節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ16:2 モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。
16:3 助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。
16:4 あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。しいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、
16:5 一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。

以前、知り合いの牧師先生が「教会は必要悪かもしれませんね」とおっしゃっていたことがありました。それを聞いた時、私は「え~?」という気持ちでしたが、実際、自分が同じ仕事をするようになって、その言葉の言わんとすることの意味が少しずつわかってきたような気がします。
教会には、社会の荒波にもまれ、傷ついた魂、逃れてきた人たちがやってきます。
本当は、そんな事が生じないような愛と平和に満ちた社会であれば良いのでしょうが、人間の強欲と罪の支配する世の中では、純粋な人たちは、傷つけられていくばかりなのです。
そんなこの世の中に、キリストの教会は、ぽつんと、受け皿として存在しているのかもしれません。

イエス様は、こう仰せられます。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

この世の中で、唯一、こんなお優しい言葉をかけて下さるのは、イエス様だけです。
そして、教会は、そのようなイエス様の御言葉が語られる場所として用いられるべきなのでしょう。

今日も、傷ついた魂の逃れ場として、キリスト教会が用いられますように。