イザヤ1章1~31節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イースターおめでとうございます。
私たちのために十字架で死なれた主イエス様のよみがえりと永遠の命の約束を覚え、心より感謝申し上げます。

さて、本日から聖書日課は、イザヤ書に入ります。
イザヤ書と言えば、第4の福音書とも言われるほど、神様の豊かな慰めに満ちた預言書であると言えるでしょう。
しかし、そんな、豊かな慰めに満ちた預言書であるとは言え、時には手厳しい御言葉も語られています。

イザヤ1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。
1:2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
1:3 牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。

イザヤ書1章には、主なる神様に対して背反の行為を犯し続けているイスラエルの民に対して、神様が御語りになられた言葉が記されています。
しかし、そこに語られている事柄は「裁き」というよりも「警告」と言いますか、イスラエルの滅び行く現状に対し、「そのままではいけない!悔い改めて、正しい生き方を歩むべきだ」と、まるで、親が子供に対し、あるいは、牛飼いが牛たちやろばに対し、命に与ることができる道を教えているかのように、愛の心を持って諭そうとしている様子が伺えるのです。

イザヤ1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。

神様は、民の神に対する空しい捧げものについて、「もはや私は耐えられない」とまで語られており、彼らの捧げる捧げものが、真実な悔い改めに基づく、好ましいいけにえではなく、偽善と傲慢に満ちた、しかも、全く価値のない捧げものをもって、神の御前に立とうとしている様子を戒めているのです。

神様が本当に願っていることは、形式的な懺悔や捧げものなどによる礼拝ではありません。
真実な心からの悔い改めと、100%、神様に頼る、神様への信頼こそが求められていると言えるでしょう。

イザヤ1:27 シオンは裁きをとおして贖われ 悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。

イスラエルを贖うもの、それは、神の恵みの御業によるものであり、悔い改める者の上に与えられるものです。
つまり、私たちが、自分の罪を悔い改め、その償いのためにイエス様が十字架で死んでくださり、そのイエス様の命がけの贖いこそ、神様が私たちに与えて下さった、神の御子の命という尊い贖いの代価であり、神様が私たちを憐れんで下さったことによって与えられる「恵み」であり、その恵みによって、はじめて、私たちは神様の赦しを頂き、救いの恵みに与る事ができるのです。

そう思うと、イザヤ書の預言の言葉は、神様の私たちに対する、切なる願いであり、「恵みに信頼して生きよ」と仰せられる、愛に満ちたお勧めであるということが言えるのではないでしょうか。


イエス様の尊い命がけの恵みを受けて、主に信頼し、従って生きていきたいものです。