マタイ27章11~26節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ27:21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」

ここには、イエス様が十字架刑に処されることが決まったときの様子が記されています。
ユダヤの地方総督であったピラトは、あくまで罪を見出すことのないイエス様を死刑にすることには反対でした。しかし、群集の暴動を恐れ、自分たちで始末するよう命じて、この一件からは手を引こうと考えたのです。
しかし、最終的には、イエス様はピラトの手によって処刑されたということになり、使徒信条においても「ピラトのもとに苦しみを受け・・・」と、世界中にその名を知られることになってしまいました。

私たち人間は、とかく、自分にとって都合が悪くなりそうなとき、責任を他人になすりつけようとします。ピラトしかり、群集しかり。
そして、この私もそう。
実に、私の罪の責任を、自分では取ろうともせず、イエス様に全てを背負わせている。それが、イエス様の十字架の死の意味でもあります。
しかし、主なる神様は、あえてそうなさったのです。私たちの、そのような罪の責任転嫁を、神の御子イエス様自ら進んでお受けくださっているのです。

誰もが自分自身で責任を取ろうとしない中、私たち人間の罪の責任を担って死んでいかれたイエス様の尊い生き方(死に方かな?)を覚え、常に十字架を見上げながら歩んでいきたいものです。