イザヤ53章10~12節、詩篇31篇10~17節、ヘブル2章1~9節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。

詩篇 31:10 主よ、憐れんでください わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます。
31:11 命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていきます。
31:12 わたしの敵は皆、わたしを嘲り 隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き 外で会えば避けて通ります。
31:13 人の心はわたしを死者のように葬り去り 壊れた器と見なします。
31:14 ひそかな声が周囲に聞こえ 脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 命を奪おうとたくらんでいます。
31:15 主よ、わたしはなお、あなたに信頼し 「あなたこそわたしの神」と申します。
31:16 わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。
31:17 あなたの僕に御顔の光を注ぎ 慈しみ深く、わたしをお救いください。

ヘブル 2:1 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
2:2 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、
2:3 ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、
2:4 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
2:7 あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、
2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。


使徒言行録8章のところには、エチオピアの女王カンダケの高官がエルサレムに礼拝に来ていて、その帰り道に聖書のイザヤ書を読んでいたが、その意味が分からず悩んでいたところにフィリポが遣わされ、イザヤ書の個所から説きおこしてイエス様について福音を告げ知らせた、と記されている。
おそらく、多くの人がこのイザヤ書の預言の言葉の意味を理解できなかったのだろう。
イザヤ書53章には、苦難のしもべに関する預言がなされているが、ここには、主なる神が立てられたしもべが、自らの命を犠牲として多くの人々を救おうとされることが記されており、普通の人間の感覚としては考えられないことであったし、ありえないことと思われていたはずである。
しかし、主なる神様は、そこまでして私たちを救おうとされたのであり、救い主として御子イエス様がこの世に現れ、あの十字架の贖いの死によって、すべての人を救うためのいけにえの犠牲となって下さったのである。
だから、主イエス様が受けられたお苦しみや死の出来事は、全て、私たちを救いたいがための神の愛と憐れみの現われであり、イエス様のお姿を見上げる時に、そこに、大きな神のご愛が示されているのである。
悩みの内にある時、悲しい時、苦しい時、そのような時こそ、イエス様の十字架を思い出そう。
私たちには乗り越えられなかった罪に対する裁きと死は、もはや取り除かれているのだから。