ヨシュア記4章14~21節、詩篇32篇、2コリント5章6~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨシュア記 4:14 その日、全イスラエルの見ている前で、主がヨシュアを大いなる者とされたので、彼らはモーセを敬ったように、ヨシュアをその生涯を通じて敬った。
4:15 主はヨシュアに言われた。
4:16 「掟の箱を担ぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させなさい。」
4:17 ヨシュアが祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来い」と命じ、
4:18 主の契約の箱を担ぐ祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足の裏が乾いた土を踏んだとき、ヨルダン川の流れは元どおりになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。
4:19 第一の月の十日に、民はヨルダン川から上がって、エリコの町の東の境にあるギルガルに宿営した。
4:20 ヨシュアはヨルダン川から取った十二の石をギルガルに立て、
4:21 イスラエルの人々に告げた。「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、
4:22 子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。
4:23 あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。
4:24 それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」

詩篇 32:1  ダビデの詩。マスキール。 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

2コリント 5:6 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
5:9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。
5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。
5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。


コリントの手紙の5章6節の箇所では「わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」と語られている。
そして、同8節には「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とも述べられている。
一見すると、信仰によって心が強められた状態を言い表しているように見えるが、逆に言えば、体をすみかとしてこの地上に生きている間は、常に不安や恐れが伴い、どちらかと言うと心が弱くなりがちであるということなのかもしれない。
もちろん、だからこそ、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから」心強くいられるということでもあろう。
地上での命が全てであるならば、日々衰えていく生身の肉体や精神を前に、誰もが恐れと不安を抱いても不思議ではない。
このからだも、いつかは滅びるだろうことを誰もが知っている。
だからこそ、朽ちていく命とからだではなく、永遠に朽ちない命とからだを与えて下さる神の約束に目を留めていけば、自ずと、恐れや不安も取り除かれ、心も強められていく、ということであろう。
「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
この約束があるから、私たちは安心して居られるし、神の御子イエス様が私たちのために十字架で死に、よみがえられ、この救いの恵みを信じるものに無償で与えて下さると約束されているからこそ、安心して受け取ることが出来るのである。
自分の力ではどうにもならないけれども、神が恵みを与えて下さるからこそ、私たちの救いは確かなものと言える。
感謝しつつ、喜んで受け留めよう。
私たちにできるのはそれだけであるが、それが一番幸いなことなのだから。