エレミヤ36章1~10節、詩篇119篇89~96節、1コリント14章1~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 36:1 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。
36:2 「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。
36:3 ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」
36:4 エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。
36:5 エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。
36:6 お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。
36:7 この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」
36:8 そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。
36:9 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。
36:10 そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。

詩篇 119:89 主よ、とこしえに 御言葉は天に確立しています。
119:90 あなたへの信仰は代々に続き あなたが固く立てられた地は堪えます。
119:91 この日に至るまで あなたの裁きにつき従って来た人々は すべてあなたの僕です。
119:92 あなたの律法を楽しみとしていなければ この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。
119:93 わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません それによって命を得させてくださったのですから。
119:94 わたしはあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。
119:95 神に逆らう者はわたしを滅ぼそうと望んでいます。わたしはあなたの定めに英知を得ます。
119:96 何事にも終りと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。

1コリント 14:1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
14:2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
14:3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
14:4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
14:5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。
14:6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。
14:7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。
14:8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。
14:9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
14:10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
14:11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
14:12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。



異言と預言の違いは、単に語られている言葉の意味が分かるかどうかだけではない。
それらの言葉が、人を造り上げ、励まし、慰めることができるかどうかの方が大きい。
どんなに知的で、専門的な言葉を用い、高尚な話しをしても、それを聞く人たちに理解され、心動かされるものでなければ、それらの言葉は空しいものとなるだろう。
神学の学びを深めたり、専門的な知識を積み重ね、研鑽を積み上げていくこと自体は悪いことではないが、それによって、小難しい話しをしたり、あるいは、専門的な知識をひけらかすだけのような自慢話しをきかされるのなら、そうした学びもまた空しいだけのものとなる。
聖書の言葉を宣べ伝えていく時に大切なことは、そこに神の愛と恵みがはっきりと現わされているかどうか、そして、聞く人の心にしっかりと届いているかどうか、であろう。
そのためには、むしろ簡単な言葉を用いたほうがいい場合もあるし、大切なことならば、とりたてて新しい話しをする必要もない。

笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。

楽器でも命のこもった演奏というものがあるし、そういった演奏は人の心を打つ。
神の言葉にもそういった人を生かすことのできる命が宿っていることを忘れないように語り続けていきたいものである。