ネヘミヤ9章16~25節、詩篇25篇1~10節、1テサロニケ5章12~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ネヘミヤ 9:16 ところが、わたしたちの先祖は傲慢にふるまい かたくなになり、戒めに従わなかった。
9:17 聞き従うことを拒み 彼らに示された驚くべき御業を忘れ かたくなになり エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに溢れ 先祖を見捨てることはなさらなかった。
9:18 彼らが牛の像を鋳て造り エジプトから救ってくれた神だと称し 背信の大罪を犯したときも
9:19 まことに憐れみ深いあなたは 彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し 夜は火の柱を取り去ることなく 行く道を照らされた。
9:20 あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え 口からマナを取り上げることなく 渇けば水を与えられた。
9:21 四十年間、あなたが支えられたので 彼らは荒れ野にあっても不足することなく 着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。
9:22 諸国、諸民族を彼らの支配下に置き 分け与えて国境に住まわせられた。ヘシュボンの王シホンの国も バシャンの王オグの国も彼らの所有となった。
9:23 その子らの数を天の星のように増やし 行って所有せよと先祖に約束された土地に 彼らを導き入れられた。
9:24 その子らはその地に入り、これを所有した。あなたはその地の先住民カナン人を服従させ  彼らの支配下に置かれた。その地にいた諸民族とその王たちを 彼らは思いのままにあしらった。
9:25 堅固な町々、肥沃な土地を奪い すべての良きものに満ちた家 貯水池、ぶどう畑、オリーブと果樹の園を 数多く手に入れた。彼らは食べて飽き、太り 大きな恵みを受け、満足して暮らした。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって 主の道はすべて、慈しみとまこと。

1テサロニケ 5:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、
5:13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。
5:15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 "霊"の火を消してはいけません。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。
5:22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。



聖書の教えと言うと、旧約聖書では主に律法の言葉が語られ「あなた方は神の御心に適う良き業を行え。そうすれば祝福されるであろう。」といった事が語られ、一方の新約聖書では福音の言葉が語られ「神があなた方を愛し、あなたの身代わりに御子イエス様が十字架で死なれたから、全ての罪が赦されていることを信じなさい。そうすれば救われます。」といった事が語られているように感じる。
しかし、必ずしも旧約では律法、新約では福音だけが語られているというわけでもない。
本日の日課では、むしろまるで逆のような印象を受ける。
旧約のネヘミヤ書9章の箇所では、イスラエルの民が傲慢にふるまい かたくなになり、戒めに従わず、神の御声に聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになり、エジプトの苦役に戻ろうと考えた、にも関わらず、主なる神様は彼らを赦し、恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、彼らを見捨てることはなさらなかった、のである。
一方、新約のテサロニケの箇所には、あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、愛をもって心から尊敬するように、また、信徒同士の間では、互いに平和に過ごし、怠けている者たちを戒め、気落ちしている者たちを励まし、弱い者たちを助け、すべての人に対して忍耐強く接し、だれに対しても、悪をもって悪に報いることのないように気をつけ、お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めよ、と勧められているのである。
もちろん、これらの勧めを実行したら救われるという風に語られているわけではないが、どちらかと言うと律法的な印象すら与えるものと言える。
しかし、これらの勧めは、救われた者が幸いに生きるための勧めであり、言うなれば、人生の道しるべのようなものと言えるだろう。
というのも、私たちがこのように生きることを、主イエス様ご自身が望んでおられ、私たちはそのために救われたと言えるからなのである。
ちなみに、本日の日課の箇所の直前の箇所では、次のように語られている。

1テサロニケ5:9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
5:10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

つまり、救われるということは、主と共に生きるようになること、であり、主が望まれる人として生きること、ということなのであろう。
それが理解できれば、これらの言葉が律法であるとか福音であるとか単純には分けられないものであることが分かるだろうし、もっと言えば、律法と福音とは不可分な神の言葉として同時に語られるものであることが分かるだろう。
もちろん、それを可能としてくださるのは、イエス様の十字架の御業によってである。
イエス様の十字架において、常に律法と福音が同時に語りかけてくることを覚えつつ、どちらか一方に偏るのではなく、二つの言葉に同時に耳を傾けていくことのできる幸いを覚えたいものである。