エゼキエル28章1~10節、詩篇93篇、使徒7章54節~8章1節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 28:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
28:2 「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。
28:3 お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。
28:4 お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。
28:5 お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。
28:6 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。
28:7 それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、
28:8 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。
28:9 お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。
28:10 お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。

詩篇 93:1 主こそ王。威厳を衣とし 力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。
93:2 御座はいにしえより固く据えられ あなたはとこしえの昔からいます。
93:3 主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。
93:4 大水のとどろく声よりも力強く 海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。
93:5 主よ、あなたの定めは確かであり あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り。

使徒 7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。



ステファノはなぜ殺されなければならなかったのだろう。
何も悪いことはしていないし、仮に悪いことをしていたとしても、それが理由で石で撃ち殺されるなど、どこに正義があるというのであろう。
ステファノに対する迫害は「自分たちこそ真の神を信じている」と思い込んでいる人たちによって「実際に神を信じている人」へ向けて行われたものであり、皮肉な出来事と言えよう。
しかし実際には「自分たちこそ真の神を信じている」と思い込んでいた人たちは、真の神を信じてはいなかったのである。
真の神を信じる人は「神を愛し、隣人を愛せよ」との神の教えを大切にしようとする。
だから「あいつを殺してしまおう」などといった発想には簡単には結びつくことはない。
いかなる理由であれ、他人を殺してもよいと考える発想は、神に由来するものではないだろう。
それに気づくことが大切である。
パウロもかつてはステファノをはじめ、クリスチャンたちを殺すことに賛同していた。
人の命をなんとも思っていなかったのである。
しかし、パウロも後に変えられていった。
今からでも遅くはない。
少しでも「あんな人いなくなればいいのに」といった発想を抱いているなら、神の御前にざんげをし、神がどういう思いで御子イエス様を十字架にかけられたのかを思いながら、一人一人の命の尊厳が守られるように、できうる限り、人を大切にしていけたら良いと思う。
もちろん、できないことは無理にしなくてもいいので、全ての人と付き合う必要はない。
「この人はちょっと無理」と思えば、距離を置くのも悪いことではない。
それもまた「愛」の一つの方法とも言えるのだろう。
誰一人助けてあげられなくても、まずは一人一人の幸いを願って祈っていきたいものである。