ルツ記4章7~22節、詩篇94篇、ルカ4章16~30節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ルツ記 4:7 かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。
4:8 その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。
4:9 ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。
4:10 また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」
4:11 門のところにいたすべての民と長老たちは言った。「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。
4:12 どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」
4:13 ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。
4:15 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
4:17 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
4:18 ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。
4:19 ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。
4:20 アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。
4:21 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。
4:22 オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。

詩篇 94:1 主よ、報復の神として 報復の神として顕現し
94:2 全地の裁き手として立ち上がり 誇る者を罰してください。
94:3 主よ、逆らう者はいつまで 逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。
94:4 彼らは驕った言葉を吐き続け 悪を行う者は皆、傲慢に語ります。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を砕き あなたの嗣業を苦しめています。
94:6 やもめや寄留の民を殺し みなしごを虐殺します。
94:7 そして、彼らは言います 「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。
94:8 民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
94:9 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか。
94:10 人間に知識を与え、国々を諭す方に 論じることができないとでもいうのか。
94:11 主は知っておられる、人間の計らいを それがいかに空しいかを。
94:12 いかに幸いなことでしょう 主よ、あなたに諭され あなたの律法を教えていただく人は。
94:13 その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。
94:14 主は御自分の民を決しておろそかになさらず 御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。
94:15 正しい裁きは再び確立し 心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。
94:16 災いをもたらす者に対して わたしのために立ち向かい 悪を行う者に対して わたしに代わって立つ人があるでしょうか。
94:17 主がわたしの助けとなってくださらなければ わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。
94:18 「足がよろめく」とわたしが言ったとき 主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。
94:19 わたしの胸が思い煩いに占められたとき あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました。
94:20 破滅をもたらすのみの王座 掟を悪用して労苦を作り出すような者が あなたの味方となりえましょうか。
94:21 彼らは一団となって神に従う人の命をねらい 神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。
94:22 主は必ずわたしのために砦の塔となり わたしの神は避けどころとなり 岩となってくださいます。
94:23 彼らの悪に報い 苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。わたしたちの神、主よ 彼らを滅ぼし尽くしてください。

ルカ 4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、
4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、
4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。



イエスさまは、お育ちになったナザレの町の会堂で御言葉を語り始めたが、それは、貧しい者や抑圧された者たちに対する解放を告げる福音の言葉であった。
イエスさまは、そのことを告げるために、エリヤはシドンのサレプタに住むやめもめのところに遣わされ、またエリシャはシリア人ナアマンの重い皮膚病を癒されたことなどを述べている。
しかし、これらの例話は、いずれも異邦人に対する解放と癒しであったために、自分たちを差し置いて異邦人が救われるかのようなイエス様の言葉にユダヤ人たちは憤慨し、イエス様を殺そうとしているのであろう。
ユダヤ人たちにとっては、真の神とは、自分たちを救うイスラエルの神であって、異邦人を救うためのものではなかった。
仮に、異邦人を救うことがあるとしても、まずはイスラエルから、というのが彼らの認識であったのだろう。
しかし、イエス様は、ただ苦しんでいる人たちや虐げられている人たちが救われることを述べようとしておられるだけで、イスラエルの人たちが異邦人を見下していたからこそ、エリヤやエリシャらが遣わされたところがたまたま異邦人であったということだけなのであろう。
イエスさまからみれば、イスラエルの民も異邦人も同じである。むしろ、イスラエルの民が「自分たちこそ神に選ばれし民である」と思い上がっている限り、その周辺の人たちが見下され、苦しい生活を強いられたり、具体的に生活に困窮したりすることが生じてしまっているのかもしれないのである。
現代においても、経済的な格差が問題となることが多いが、その根底に、格差を生み出すような差別的な思考があるという認識を持つ必要があるのかもしれない。
新しく選ばれた日本の首相は、都会ばかりが発展するのではなく、地方も同様に発展すべきと説いているが、アメリカの大統領はアメリカファーストで他国はどうでも良いと考えているのかもしれない。
思想にもとづく差別は、間違いなくその格差を生じさせる原因となっていくのであろう。
これから世界がどうなっていくかも注目していく必要はあるが、自分たちがどう行動して行こうとしているのか、まずは思考を整理していく必要があるだろう。
イエスさまによって愛されたのは、全ての人であり、貧しい人、苦しんでいる人、抑圧されている人たちであり、そういう人たちに救いを告げるためであることを忘れないでいたいものである。