ヨブ記13章1~19節、詩篇34篇10~15節、ヨハネ4章7~26節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨブ記 13:1 そんなことはみな、わたしもこの目で見 この耳で聞いて、よく分かっている。
13:2 あなたたちの知っていることぐらいは わたしも知っている。あなたたちに劣ってはいない。
13:3 わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。
13:4 あなたたちは皆、偽りの薬を塗る 役に立たない医者だ。
13:5 どうか黙ってくれ 黙ることがあなたたちの知恵を示す。
13:6 わたしの議論を聞き この唇の訴えに耳を傾けてくれ。
13:7 神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り 欺いて語るのか。
13:8 神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか。
13:9 人を侮るように神を侮っているが 神に追及されてもよいのか。
13:10 たとえひそかにでも、へつらうなら 神は告発されるであろう。
13:11 その威厳は、あなたたちを脅かし 恐れがふりかかるであろう。
13:12 あなたたちの主張は灰の格言 弁護は土くれの盾にすぎない。
13:13 黙ってくれ、わたしに話させてくれ。どんなことがふりかかって来てもよい。
13:14 たとえこの身を自分の歯にかけ 魂を自分の手に置くことになってもよい。
13:15 そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。
13:16 このわたしをこそ 神は救ってくださるべきではないか。神を無視する者なら 御前に出るはずはないではないか。
13:17 よく聞いてくれ、わたしの言葉を。わたしの言い分に耳を傾けてくれ。
13:18 見よ、わたしは訴えを述べる。わたしは知っている、わたしが正しいのだ。
13:19 わたしのために争ってくれる者があれば もはや、わたしは黙って死んでもよい。

詩篇 34:10 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。
34:11 若獅子は獲物がなくて飢えても 主に求める人には良いものの欠けることがない。
34:12 子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。
34:13 喜びをもって生き 長生きして幸いを見ようと望む者は
34:14 舌を悪から 唇を偽りの言葉から遠ざけ
34:15 悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ。

ヨハネ 4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


サマリアの女性は、ユダヤ人であったイエス様から声をかけられたことに戸惑いを覚えていた。
それは、当時、サマリアの人たちがユダヤの人たちから差別を受け、見下されていたために、交わりを持つことがほとんどなかったからである。
このサマリアの女性も、最初からそのことを知っていたわけではなく、大人になるにつれ、社会の仕組みや、人間の世界のしがらみなどを少しずつ学んでいくことによって、いつの間にかそれが彼女にとっても「常識」となっていたのであろう。
しかし、そこに辿り着くまでには数々の挫折があったり、あきらめがあったり、寂しいことも、悲しいことも、幾つも経験して、最終的にそういった価値観になってしまっていたのであろう。
そして、そうした現実を変えようにも、自分一人では何も変えられないし、絶望的な気持ちにさせられることもあったのではないだろうか。

社会というのは、人が集まって形成されているが、なかなか簡単には変わらないし、人間の罪や欲が絡んでいるために、とてもいびつなものと言える。
自分でも、よくこんないびつな世界で平然と生きていられるとおもうこともあるが、きっと誰もがいろんなところで苦しい思いをしたり、辛い経験を重ねつつも、何も変わらない社会の中で、あるいは、ますますいびつな世界の中で、心をだましだまし生きていくしかないのだろう。

イエス様はそんな「あきらめ」のなか生きていたであろうサマリアの女性に声をかけ、永遠に乾くことのない命の水を与えると仰せられたのである。
そんな命をもたらす水が与えられるのなら、誰もが欲しいし、この方に求めればそれが得られると知っていたなら、イエス様が言う通り、私たちの方から願い出たに違いない。

そして、聖書はイエス様がその水をお与えになる、と語る。
それを聞いて、人はどう思うのだろう。
多くの人は、最初からあきらめて、何も求めようとしないし、あいかわらず、枯れた井戸を求めて、この世界をさまよい続けている。
イエス様は私たちに永遠の命を与えて下さる。
自らの命をかけて、それを実現なさったお方である。
あきらめる前に、この方のもとにきて、命の水を求めてはいかがだろうか。
きっとイエス様は喜んであなたに命の水を与えて下さることだろう。