イザヤ25章6~10節、詩篇111篇、マルコ6章35~44節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 25:6 万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
25:7 主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし
25:8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
25:9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
25:10 主の御手はこの山の上にとどまる。

詩篇 111:1 ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる 正しい人々の集い、会衆の中で。
111:2 主の御業は大きく それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
111:3 主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く。
111:4 主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
111:5 主を畏れる人に糧を与え 契約をとこしえに御心に留め
111:6 御業の力を御自分の民に示し 諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
111:7 御手の業はまことの裁き 主の命令はすべて真実
111:8 世々限りなく堅固に まことをもって、まっすぐに行われる。
111:9 主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
111:10 主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

マルコ 6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。


イエス様が人里離れた寂しい場所へ向かわれた時、弟子たちは、何もわざわざそんなところへ行かなくても良いのに、などと考えていたことだろう。
そして弟子たちの不安は的中し、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰せられたのである。
こんな寂しいところで、どうやって五千人以上もの人々に食べ物を与えろというのか、そんなことができるわけはない、といった投げ槍な気持ちで「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と答えたのだろう。
しかし、イエス様は「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と仰せられ、弟子たちが確かめたところ、パンが五つと魚が二匹あり、イエス様はそれを祝福して人々に分け与えられたのである。
二百デナリオンのパンというのは、相当多い分量であるが、それでも五千人の人々に行き渡らせるには足りない。ましてや五つのパンと二匹の魚だけで足りるわけはないだろう。
しかし、イエス様は「ありもしないもの」ではなく「今そこにあるもの」を用いられたのである。
最初から何も無いのなら、いくら祝福しようにも祝福することはできない。
しかし、たとえわずかでも有るのなら、イエス様はそれを祝福して用いて下さるのだ。
私たちも、有りもしない絵空事ばかり思い描いて「神は祝福して下さらない」などと嘆いたり、最初からあきらめて「祝福されるはずがない」などと思ってしまっていたりしないだろうか。
もっと現実をよく見て、今あるもの、すでに与えられているものを豊かに用いて頂けるよう祈っていくべきではないだろうか。
無いものねだりばかりしていても、何も始まらない。
それよりも、いま私たちにできること、持っているもの、与えられている賜物を用いていけるよう、それらをイエス様に豊かに祝福していただけるよう、それらを神に差し出し、託してみてはどうだろうか。
神はきっと、それを豊かに祝福し、用いられ、有り余るほどの恵みで満たして下さることだろう。