アモス9章11~15節、詩篇142篇、ルカ7章31~35節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

アモス 9:11 その日には わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し その破れを修復し、廃虚を復興して 昔の日のように建て直す。
9:12 こうして、エドムの生き残りの者と わが名をもって呼ばれるすべての国を 彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。
9:13 見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ すべての丘は溶けて流れる。
9:14 わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み 園を造って、実りを食べる。
9:15 わたしは彼らをその土地に植え付ける。わたしが与えた地から 再び彼らが引き抜かれることは決してないと あなたの神なる主は言われる。

詩篇 142:1  マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴にいたとき。祈り。
142:2 声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。
142:3 御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前に苦しみを訴えよう。
142:4 わたしの霊がなえ果てているとき わたしがどのような道に行こうとするか あなたはご存じです。その道を行けば そこには罠が仕掛けられています。
142:5 目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく 逃れ場は失われ 命を助けようとしてくれる人もありません。
142:6 主よ、あなたに向かって叫び、申します 「あなたはわたしの避けどころ 命あるものの地で わたしの分となってくださる方」と。
142:7 わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしは甚だしく卑しめられています。迫害する者から助け出してください。彼らはわたしよりも強いのです。
142:8 わたしの魂を枷から引き出してください。あなたの御名に感謝することができますように。主に従う人々がわたしを冠としますように。あなたがわたしに報いてくださいますように。

ルカ 7:31 「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。
7:32 広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』
7:33 洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
7:34 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
7:35 しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」



アモス書の箇所には、主の日が来れば、その日には主なる神ご自身がダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、神がダビデを通して約束された神の国が建て直されるであろうことが預言されている。
ユダヤの多くの者たちは、このようなダビデ王国復興の時をずっと夢見ていたし、それを実現するメシアが到来するであろうことも待ちわびていたはずである。
そして、ついにその時は訪れ、主イエス様が真の救い主として世に来られ、神の恵みによる支配によるまことの神の国は実現したのである。
しかし、人々の求めていたそれは、聖書が約束していたものとは違い、政治的、経済的、軍事的な偉大な王国であり、この世の地上の王国に過ぎないものであった。
だから人々は真のメシアなるイエス様が到来しても、信じる人もいたけれど、多くの人には求めていたものとは違うメシアでしかなかったのだろう。
当時の人たちの「コレじゃない」感も相当大きかったと思われるが、ましてや、それから2千年以上たった現代の人々にとってイエス様の存在や言動について、ピンとこないのは当然なことなのだろう。
しかしイエス様は「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」と仰せられた。
つまりすべての事は、私たちがイエス様に従って、どう生きていくかにかかっている。
いや、どう生きていくかは実は問題ではなくて、イエス様に従って生きていく人々によって証明されるとだけ書かれている通り、従って生きていればそれで良いのである。
私たちは神の救いを「証明するために」生きているのではない。
生きていくだけで神に救われた者の幸いを「証明できてしまう」のである。
あまり気負わず、自然に喜んで生きていけたら、それで十分である。