出エジプト記19章16~25節、詩篇19篇、マルコ9章2~8節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト記 19:16 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
19:17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
19:19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
19:20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
19:21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
19:23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
19:24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
19:25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

詩篇 19:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
19:2 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
19:3 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。
19:4 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても
19:5 その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。
19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように 勇士が喜び勇んで道を走るように
19:7 天の果てを出で立ち 天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。
19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光を与える。
19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き 主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し それらを守って大きな報いを受けます。
19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。
19:14 あなたの僕を驕りから引き離し 支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ わたしは完全になるでしょう。
19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。

マルコ 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。


モーセはシナイの山の上で主なる神様とあい、民に告げる言葉を託され、民のもとへ山を下りていった。
しかし、よくよく聖書を読んでいくと、モーセは何度か山を登ったり下りたりしていることがわかる。
出エジプト記19章の21節の箇所では、イスラエルの民が越境して山に登って来ないよう警告するために山を下っていくよう命じられており、イスラエルの民が恐れて誰一人近づいてこないだろうと考えていたモーセは、そこまでしなくても良いだろうと考えたのか、一旦は山を下らなくてもいいのではないかと訴えている。
この時のモーセはずいぶんと高齢の老人であったし、何度も山を登ったり下りたりすることは、かなりきついことであったに違いない。
モーセの言葉は、神に対する不満とまではいかないにせよ、できれば山を何度も上り下りしたくない本音がにじみ出ているように見える。
モーセでさえそうなのだ。
ちっぽけな信仰しか持っていないような我々も、ことあるごとに自分の都合や考えを優先させ、神様の言葉に素直に従えない性質に押し流されてしまうものである。
良かれと思ってやっていることも、神のため、福音宣教のためと思っていても、心のどこか奥底で、面倒だとか、できればやりたくないといった気持ちと戦いながら、偽善的な働きを続けているのかもしれない。
でも、やらないよりはやった方が良いこともある。
どの道、罪人であることには変わりはないのだし、そもそも完全な清い業など我々には不可能なことである。
それでも、自分に何かできる事はないか、考えるだけでもいいのかもしれない。
ペテロは「ここに仮小屋を三つ建てましょう」と言い放ったが、何の役にも立たないことは分かってはいても、今目の前におられるイエス様のために自分にも何かできないかと思った事には違いない。
無駄なことかどうかは、あとになってみないと分からないことも多いし、仮に無駄になったとしても、自分自身のできる範囲で精いっぱい無い知恵を絞って考え、やってみようとしたのなら、それはそれで尊いこと。
間違っていても、一生懸命やっているのなら、そこは認めてあげるべきかもしれない。
一番いやってはけないことは、他人がやっていることに口出ししたり、批判したりすることなのかもしれない。
神のために、福音宣教のために一生懸命働いておられる方々を、できる限り応援していけたらと思う。