詩篇32篇1~11節、詩篇25篇1~10節、マタイ9章2~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

詩篇 32:1  ダビデの詩。マスキール。 いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて 絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く わたしの力は 夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって わたしを囲んでくださる方。
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く 主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

詩篇 25:1  ダビデの詩。 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
25:2 わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように 敵が誇ることのないようにしてください。
25:3 あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
25:4 主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください。
25:5 あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
25:6 主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
25:7 わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。
25:8 主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。
25:9 裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。
25:10 その契約と定めを守る人にとって 主の道はすべて、慈しみとまこと。

マタイ 9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

普通に考えれば、中風の人に向かって起きて歩けという方が難しいように思える。
罪が赦されたと「言うだけ」ならば簡単だし、何の変化も起きなくても、それが嘘だとバレることもない。
しかし、それが真実を伴う言葉だとしたら全く違ってくる。
本当にその人の罪が赦されるためには、それなりの償いが求められるし、「あなたはもう赦されている」と言うのであれば、それ相応の償いを誰かが支払う必要があるし、自分でそれを支払う覚悟も無ければならないだろう。
それほど「あなたの罪は赦された」と宣言することは難しい言葉なのだ。
しかしイエス様はそれを宣言されたのである。
イエス様ご自身が、その人の罪を背負って償いを支払う覚悟ができているからこその言葉と言えよう。
それでもイエス様は、罪を赦す権威をお持ちであることを示すためにも、あえて中風の人に「起きて歩け」と命じられ、その人を癒したのである。
病の人を癒すことですら、そう簡単なことではない。
ましてや、罪を赦すこととなると、イエス様でさえ、御自分の命の代価を支払わなければならないほど難しいことであったと言える。
しかし、イエス様はそれを成し遂げられたのである。
医者を必要とするのは病人であり、罪人が必要としているのは命をかけてまで私たちを愛して下さった救い主イエス様をおいて他にはいない。
イエス様に愛され、罪赦された者であることを喜ぼう。