エレミヤ1章4~10節、詩篇85篇2~3,9~4節、使徒11章19~26節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 1:4 主の言葉がわたしに臨んだ。
1:5 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」
1:6 わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
1:7 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。
1:8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」と主は言われた。
1:9 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。
1:10 見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために。」

詩篇 85:2 主よ、あなたは御自分の地をお望みになり ヤコブの捕われ人を連れ帰ってくださいました。
85:3 御自分の民の罪を赦し 彼らの咎をすべて覆ってくださいました。
85:9 わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
85:10 主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
85:11 慈しみとまことは出会い 正義と平和は口づけし
85:12 まことは地から萌えいで 正義は天から注がれます。
85:13 主は必ず良いものをお与えになり わたしたちの地は実りをもたらします。
85:14 正義は御前を行き 主の進まれる道を備えます。

使徒 11:19 ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。
11:20 しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21 主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
11:22 このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23 バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24 バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。
11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26 見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。


初代教会の時代、キリストの御業による救いの約束を宣べ伝える宣教の働きは、少しずつではあっても、確実にその働きの実を結んでいった。
もちろん、信じようとしない人も大勢いただろうし、あいかわらず迫害する者も少なからずいたことにも変わりはない。
それでも主イエス様の十字架と復活の御業によって全ての罪を赦して頂き、信じる者なら誰でも永遠の命を頂くことができるという幸いな御言葉の約束は、救いを求める多くの人々の心に届いていったのである。
誰が信じて救われるかどうかなどということは、伝えてみないと分からない。
だから、私たちはそれを続けるしかない。
宣教の働きをやめてしまえば、それで終わり。
その先、何も生み出すこともできない。
初代教会の時代も、多くの困難なことはあったに違い合い。
それでも主イエス様を救い主として信じた人たちは、福音を宣べ伝えていったのである。
そして、そのような人たちが「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれるようになった。
福音を宣べ伝えないのなら、クリスチャンを名乗る資格はないのかもしれないが、たとえ言葉数は少なくとも、イエス様を救い主として信じる人を生きよう。
それもまた立派な証しと言えるのだから。