エゼキエル7章1~9節、詩篇90篇1~8,12節、黙示録16章8~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 7:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
7:2 「人の子よ、言いなさい。主なる神がイスラエルの地に向かってこう言われる。終わりが来る。地の四隅に終わりが来る。
7:3 今こそ終わりがお前の上に来る。わたしは怒りを送り お前の行いに従って裁き 忌まわしいすべてのことをお前に報いる。
7:4 わたしは、お前に慈しみの目を注がず 憐れみをかけることもしない。お前の行いをわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは わたしが主であることを知るようになる。
7:5 主なる神はこう言われる。災いに続く災いが来る。
7:6 終わりが来る。終わりが来る。終わりの時がお前のために熟す。今や見よ、その時が来る。
7:7 この地に住む者よ、お前の順番が来た。時は来た。その日は近い。それは大混乱の日で、山々には喜びの声が絶える。
7:8 今や、わたしはお前に向かって憤りを注ぎ お前に対して、わが怒りを注ぎ尽くす。わたしは、お前の行いに従って裁き 忌まわしいすべてのことをお前に報いる。
7:9 わたしは慈しみの目を注がず 憐れみをかけることもしない。お前の行いに応じてわたしは報いる。お前の忌まわしいことはお前の中にとどまる。そのとき、お前たちは知るようになる わたしが、お前たちを打つ主であることを。

詩篇 90:1  祈り。神の人モーセの詩。 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:2 山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。
90:3 あなたは人を塵に返し 「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
90:4 千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:5 あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入り あなたの憤りに恐れます。
90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

黙示録 16:8 第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。
16:9 人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。
16:10 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、
16:11 苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。
16:12 第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。
16:13 わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
16:14 これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
16:15 ――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。――
16:16 汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。
16:17 第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。
16:18 そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
16:19 あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。
16:20 すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。
16:21 一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚だしかったからである。


聖書には「世の終わり」に関する事が記されており、その時が来れば、全ての人が神の御前に立たされ、大いなる裁きを受けることになるのだろう。
その時を恐れをもって迎えることになるのか、はたまた、イエス・キリストと共にあって罪赦された人としてそこに立つのかでは、それこそ天と地ほどの差となる。
まさに天国と地獄の分かれ目ということであろう。
しかし、それは、必ずしも「終わり」の時だけに限定されるものでもなく、裁かれるものか、救われるものか、いつでも神の御前に立たされている。
人の人生を見てもも、生まれてすぐに召される人もいれば、100歳近くになってもまだまだ元気に生きている方もおられるように、終わりがすぐにやってくる人もいれば、終わりの時を迎えているようで、全くその兆しすら見えない人もいる。
始まりが誕生で、終わりは死であると考えるのは、少々短絡的すぎる。
それよりも、人が生きていることが始まりであり、死んでいる状態が終わりと考えたほうがしっくりくる。
すなわち、生ける真の神のみもとに立ち帰り、救いの約束を信じていれば、私の命は始まり、生き、神に背を向けていれば、裁きを逃れることはできず、終わりであり、死となる。
確かに人生の終わりの時は、誰にでもいつかやってくるだろう。
しかし、始まりの時か終わりの時かの選択は、いつでも私の目の前にある。
神に背を向ければ、いつかやってくるように思われる裁きの時は、すぐにでも訪れるし、神と共に歩んでいれば、いつでも新しい命に生きるものとして下さる。

歴代誌下7:14 もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。