イザヤ24章17~23節、詩篇23篇、マルコ2章18~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 24:17 地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。
24:18 恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み 穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
24:19 地は裂け、甚だしく裂け 地は砕け、甚だしく砕け 地は揺れ、甚だしく揺れる。
24:20 地は、酔いどれのようによろめき 見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く 倒れて、二度と起き上がることはない。
24:21 その日が来れば、主が罰せられる 高い天では、天の軍勢を 大地の上では、大地の王たちを。
24:22 彼らは捕虜が集められるように、牢に集められ 獄に閉じ込められる。多くの日がたった後、彼らは罰せられる。
24:23 月は辱められ、太陽は恥じる 万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり 長老たちの前に、主の栄光が現されるとき。

詩篇 23:1  賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

マルコ 2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」


マルティン・ルターは、その著書「九十五か条の提題」の冒頭において「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ…』(マタイ4:17)と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めることを欲したもうたのである。」と記し、特に、当時の教皇が命じた悔悛の秘跡を行う事を指しているのではない、と語っている。
すなわち、悔い改めの態度を示す「業」を行う事さえしていれば良いということではなく、自分の全存在、全ての生涯が神のもとに立ち帰ることが求められているのである。
極端な言い方をすれば、断食しようが、断食しまいが、神のもとに生きているのなら、どちらを選んでも問題ではない。
大切な事は、自分の存在全てがイエス様の十字架の贖いの御業によって贖われていることを知り、自分はそれを受ける必要がある罪人なのだということを自覚することである。
悔い改める時には、何等かの苦行を行わなければならないとか、何かを我慢したり、自分を痛めつけたりする必要があると考えているならば、何のためにイエス様が十字架で苦しまれたのかを見失ってしまうことにもなりかねない。
イエス様は、私たちを苦しみから解放するために、身代わりとなって十字架で死なれたのである。
イエス様の十字架の御業を無駄にしないためにも、あらゆる苦難から解放された喜びに生きる者でありたい。
イエス様の十字架の贖いにより、罪赦され、全く新しいものとされた幸いな人生を歩んで行きたいものである。