レビ16章1~5,20~28節、詩篇119篇65~72節、マタイ21章18~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

レビ 16:1 アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった。
16:2 主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである。
16:3 アロンが至聖所に入るときは次のようにしなさい。まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する。
16:4 彼は聖別した亜麻布の長い服を着け、その下に亜麻布のズボンをはいて肌を隠し、亜麻布の飾り帯を締め、頭に亜麻布のターバンを巻く。これらは聖なる衣服であり、彼は水で体を洗ってこれを着る。
16:5 次に、イスラエルの人々の共同体から贖罪の献げ物として雄山羊二匹、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を受け取る。
16:20 こうして、至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、
16:21 アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。
16:22 雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。
16:23 アロンは臨在の幕屋に戻り、至聖所に入るときに身に着けていた亜麻布の衣服を脱いでそこに置き、
16:24 聖域で身を洗い、自分の衣服に着替え、外に出て自分の焼き尽くす献げ物と民の焼き尽くす献げ物をささげ、自分と民のために贖いの儀式を行う。
16:25 また、贖罪の献げ物の脂肪を祭壇で燃やして煙にする。
16:26 アザゼルのための雄山羊を引いて行った者は、衣服を洗い、身を洗って後、初めて宿営に戻ることができる。
16:27 至聖所のための贖いの儀式を行うために、その血を携え入れられた贖罪の献げ物の雄牛と雄山羊は、宿営の外に運び出し、皮、肉、および胃の中身を焼却する。
16:28 この仕事に従事した人は衣服を洗い、身を洗って後、初めて宿営に戻ることができる。

詩篇 119:65 主よ、あなたの御言葉のとおり あなたの僕に恵み深くお計らいください。
119:66 確かな判断力と知識をもつように わたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。
119:67 わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。
119:68 あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください。
119:69 傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。
119:70 彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。
119:71 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
119:72 あなたの口から出る律法はわたしにとって 幾千の金銀にまさる恵みです。

マタイ 21:18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
21:19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
21:20 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21:21 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
21:22 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」


レビ記10章の箇所には、アロンの子らが神の定められた規定に反する形で神の御前に使づいたために滅ぼされたということが記されている。
それほどに、神は畏れるべきお方であり、本来、我々のような愚かな罪人が軽々しく近づくことのできるようなお方ではない。
しかし、主なる神様は、御子イエス様を私たちの罪のための生贄として十字架にかけられ、全ての罪を赦して下さり、安心して神の御前に近づくことができるようにして下さったのである。
もちろん、そのためにはイエス様が必要であり、イエス様が自分のために身代わりとあって死んで下さったことを信じる信仰が必要ではあるが、神の御前に立つことが許されていることは幸いなことである。
だから、イエス様は、何でも祈って良いと仰せられる。
もちろん、何でも適えて下さるわけではないかもしれないけれども、安心して祈ることができるのは、ありがたいことである。
祈ったことがかなえられるかどうかは、それが神の御心に適うかどうかによるが、とりあえず祈ること自体は妨げられていない。
まずは神の御前に立たせていただけること、安心して何でも祈って良いと言って下さる事を覚え、喜びと平安の中、祈り続けていきたいものである。