エゼキエル24章1~14節、詩篇119篇33~40節、2コリント12章11~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 24:1 第九年の十月十日のことである。その月の十日に、主の言葉がわたしに臨んだ。
24:2 「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日にエルサレムの攻城を始めた。
24:3 あなたは反逆の家に対してたとえを語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。据えよ、鍋を据えよ。またその中に水を注げ。
24:4 それに肉の切れを入れよ。腿や肩肉、すべて上質の肉切れを集め 最上の骨で鍋を満たせ。
24:5 また、最上の羊を取り その下に骨を積み重ねよ。これを十分に沸騰させ 中の骨まで煮えるようにせよ。
24:6 それゆえ、主なる神はこう言われる。災いだ、流血の都よ。錆のついた鍋、その錆は取り除きえない。肉を一切れ一切れ取り出せ。くじがそのために引かれることはない。
24:7 流血が都の中にあるからだ。彼女は血を裸の岩の上に流し 土で覆うために地面に注ぐことをしなかった。
24:8 わたしは復讐のため憤りをかき立て 彼女の血を裸の岩の上に流し それが覆われないようにした。
24:9 それゆえ、主なる神はこう言われる。災いだ、流血の都よ。わたしもまた、薪の山を大きくする。
24:10 まきを積み重ね、火をつけよ。肉を煮込んで肉汁を作り、骨を焦がせ。
24:11 鍋を空にして炭火にのせ 熱して、青銅が赤くなるまで焼け。汚れがその中で溶け、錆がなくなるように。
24:12 しかし、努力のかいもなく 厚い錆は火でも取り除きえない。
24:13 不貞によってお前が汚れたので、わたしは清めようとしたが、お前は汚れから清くならなかった。わたしが憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない。
24:14 主なるわたしが語ったのだ。それは実現する。わたしがそれを行う。わたしはそれをやめず、惜しまず、憐れみもしない。お前の道と行いに従って、お前は裁かれる」と主なる神は言われる。

詩篇 119:33 主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。
119:34 あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。
119:35 あなたの戒めに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています。
119:36 不当な利益にではなく あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
119:37 むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。あなたの道に従って 命を得ることができますように。
119:38 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。わたしはあなたを畏れ敬います。
119:39 わたしの恐れる辱めが わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。
119:40 御覧ください わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって 命を得させてください。

2コリント 12:11 わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。
12:12 わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。
12:13 あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。
12:14 わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。
12:15 わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。
12:16 わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。
12:17 そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。
12:18 テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。
12:19 あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。
12:20 わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。
12:21 再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。


パウロがコリントの教会のクリスチャンたちに宛てた手紙には、パウロの複雑な心境がにじみ出ているように思う。
パウロとしては、宣教の働きのために、コリントの教会のクリスチャンたちにも支援を協力して欲しいと願っていたことであろう。
しかし、コリントの教会のクリスチャンたちの中には、パウロの使徒職を疑うものもいたり、支援とは名ばかりで、実際にはしぶしぶ協力していたり、単なる見栄で支援をしていたものたちもいたのではないだろうか。
そんなコリントの教会に対し、パウロは、自分の指導の仕方が悪く、コリントの教会の人たちがパウロの働きを支援できていないことや、パウロ自身が自分の財産を用いて生活してしまっていることに対し、コリントの教会の人たちが宣教協力に参加できないようにしてしまったことを詫びるような内容となっているとも言える。
もちろん、それらの表現は、パウロなりの皮肉であると思われ、コリントの教会のクリスチャンたちを直接的に厳しく批判するようなことを避け、自分が宣教して生み出されたコリントの教会が、率先して宣教の働きに協力するようになってくれることを強く願ってのことであろう。


2コリント9:2 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。
9:3 わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。
9:4 そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。
9:5 そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。
9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
9:7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9:9 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
9:10 種を蒔くあき人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
9:11 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
9:12 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
9:13 この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。
9:14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。
9:15 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。


現代の教会でも、献金は宣教の働きを進めていく上で重要な働きである。
しかしそれは、単にお金を集めるだけではなく、自分も宣教の働きに加わるということであり、同時に、神の恵みの御業にあずかることでもある。
願わくは、強いられてではなく、自分からこの素晴らしい働きに携わらせて頂けるようになりたいものである。