エゼキエル36章33~38節、詩篇138篇、マタイ16章5~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 36:33 主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。
36:34 荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。
36:35 そのとき人々は、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃虚となった町々が、城壁のある人の住む町になった』と言う。
36:36 お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。主であるわたしが、これを語り、これを行う。
36:37 主なる神はこう言われる。わたしは、再びイスラエルの家の願いを受け入れ、彼らのために行う。わたしは彼らの人口を羊の群れのように増やす。
36:38 祭りの時に、エルサレムが聖別された羊で満ち溢れるように、廃虚であった町々は人の群れで満たされる。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。」

詩篇 138:1  ダビデの詩。 わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。
138:2 聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。
138:3 呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。
138:4 地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
138:5 主の道について彼らは歌うでしょう 主の大いなる栄光を。
138:6 主は高くいましても 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。
138:7 わたしが苦難の中を歩いているときにも 敵の怒りに遭っているときにも わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
138:8 主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。

マタイ 16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
16:7 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」
16:12 そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。


聖書の中で、イスラエルの民が安住するための土地や町に関する言及は、思いのほか多い。
それは、人々が安心して暮らすことができることが、生きることにおいて、ともても大切なことだからであろう。
しかし、それらは、神が備え、人に与えるものであるという風に語られていることが多い。
そもそもこの世界も人が生きていくために神が備えて下さったようなものであり、人間がこれを構築したのではない。

現代のイスラエルは、神の国の実現を早めようとしているためか、かなり強引な仕方で領土を広げようとしている。
しかし、それはあくまで人間の業に過ぎない。

イエス様が「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と仰せられた時、それは、彼らの教えに注意せよとのことであったようである。
彼らの教えとは、人間の業による救いの達成であり、人間の力により神の国の実現を満たそうとするものであっただろう。
しかしそれは、神の国ではなく、人間の国でしかない。

私たちの救いは、どのようにして実現し、もたらされるのだろう。
すべては神の恵みにより、イエス様の十字架の贖いの御業によってもたらされる。
人間業で神の国を押し広げようとしても、そこには必ず無理が生じるし、矛盾をもたらすことにもなるだろう。
さりとて、何もしないでただ黙って眺めているだけというのも好ましいことではないが、真の神の国が到来することを願いつつ、神が与えて下さる恵みを積極的に受け取って行くものでありたいものである。