イザヤ51章17~23節、詩篇145篇14~21節、ローマ9章6~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 51:17 目覚めよ、目覚めよ 立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み よろめかす大杯を飲み干した都よ。
51:18 彼女の産んだ子らは、だれも導き手とならず 育てた子らは、だれも彼女の手を取って支えない。
51:19 二組の災いがあなたを襲った。誰があなたのために嘆くであろうか。破壊と破滅、飢饉と剣。誰があなたを慰めるであろうか。
51:20 どの街角にもあなたの子らが力尽きて伏している 網にかかったかもしかのように。主の憤り、あなたの神のとがめに満たされて。
51:21 それゆえ、これを聞くがよい 酒によらずに酔い、苦しむ者よ。
51:22 あなたの主なる神 御自分の民の訴えを取り上げられる主は こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を あなたは再び飲むことはない。
51:23 あなたを責める者の手にわたしはそれを置く。彼らはあなたに言った。「ひれ伏せ、踏み越えて行くから」と。あなたは背中を地面のように、通りのようにして 踏み越える者にまかせた。

詩篇 145:14 主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている人を起こしてくださいます。
145:15 ものみながあなたに目を注いで待ち望むと あなたはときに応じて食べ物をくださいます。
145:16 すべて命あるものに向かって御手を開き 望みを満足させてくださいます。
145:17 主の道はことごとく正しく 御業は慈しみを示しています。
145:18 主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし
145:19 主を畏れる人々の望みをかなえ 叫びを聞いて救ってくださいます。
145:20 主を愛する人は主に守られ 主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。
145:21 わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは 世々限りなく聖なる御名をたたえます。

ローマ 9:6 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
9:8 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。
9:9 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。
9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。
9:11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。



人が生きていく上で、希望を持つことは重要である。
しかし、それがいつのまにか自分の欲を満たすだけの願望に置き換わっていたり、とりとめのない幻想にしがみついていたりしても、ただただ空しいだけである。
イスラエルの民にとって、神に選ばれたことは、大いに誇らしく思えたことであろうし、民族のアイデンティティにもなっていたことであろう。
しかし、それは、神の国の救いの約束の言葉を世界に伝えていくために選ばれたものであり、その働きを通して多くの人々が神の国に入ることを共に喜ぶことできるようになることこそがイスラエルにとっての本当の希望であったはずである。
この世には、人間を楽しませるように思える様々なものがあるが、それらが本当に人を祝福し、幸いな人生へと導いてくれるのかと言えば、必ずしもそうではないし、人が勝手にそう思っているのなら、それが現実のものであっても、幻想に過ぎない。
神の国は確かに存在するし、イエス様が十字架で死に、よみがえられたのも事実である。
神がその一人子の命をたもうほどに私たちを愛し、救おうとされた、その救いの約束に信頼し、真の希望を持って生きていくものでありたいものである。