哀歌3章40~58節、詩篇50篇7~15節、使徒28章1~10節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

哀歌 3:40 わたしたちは自らの道を探し求めて 主に立ち帰ろう。
3:41 天にいます神に向かって 両手を上げ心も挙げて言おう。
3:42 わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。
3:43 あなたは怒りに包まれて追い迫り わたしたちを打ち殺して容赦なさらない。
3:44 あなたは雲の中に御自分をとざし どんな祈りもさえぎられます。
3:45 わたしたちを塵、芥のようにして 諸国の民の中にお見捨てになりました。
3:46 敵は皆、わたしたちに向かって大口を開く。
3:47 恐れとおののきが、騒乱と破壊が、襲いかかる。
3:48 わたしの民の娘は打ち砕かれ わたしの目は滝のように涙を流す。
3:49 わたしの目は休むことなく涙を流し続ける。
3:50 主が天から見下ろし 目を留めてくださるときまで。
3:51 わたしの都の娘らを見て わたしの目は魂に痛みをもたらす。
3:52 敵はゆえなくわたしを追う 鳥を追う狩人のように。
3:53 命を絶とうとわたしを穴に落とし その上に石を投げる。
3:54 水はわたしの頭を越え もう最期だとわたしは思った。
3:55 深い穴の底から 主よ、わたしは御名を呼びます。
3:56 耳を閉ざさず、この声を聞き わたしを助け、救い出してください。
3:57 呼び求めるわたしに近づき 恐れるなと言ってください。
3:58 主よ、生死にかかわるこの争いを わたしに代わって争い、命を贖ってください。

詩篇 50:7 「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。
50:8 献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は 常にわたしの前に置かれている。
50:9 わたしはお前の家から雄牛を取らず 囲いの中から雄山羊を取ることもしない。
50:10 森の生き物は、すべてわたしのもの 山々に群がる獣も、わたしのもの。
50:11 山々の鳥をわたしはすべて知っている。獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。
50:12 たとえ飢えることがあろうとも お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは すべてわたしのものだ。
50:13 わたしが雄牛の肉を食べ 雄山羊の血を飲むとでも言うのか。
50:14 告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。
50:15 それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」

使徒 28:1 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。
28:2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。
28:3 パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みついた。
28:4 住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」
28:5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。
28:6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。
28:7 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。
28:8 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。
28:9 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。
28:10 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。

聖書には、神に背を向けたイスラエルの民に対し、主なる神様が裁きをなされるといったことが記されているように見える。
しかしそれは、単なる懲らしめや、裁くためだけの裁きではなく、愛のある裁きであり、罪に溺れた生き方から神のもとへ立ち返ることを願っての導きであることが伺える。
そして、主なる神様は、ただただ人間を愛しておられれるし、人間に対して多くの業を求めているわけではない。
人間が神のためにできることなど、神の目からすれば、なんら助けを必要としているわけではないし、むしろ助けが必要なのは人間の方であろう。
人間が神に捧げようとするいけにえなども、もともとは神が創り、人間に与えたものであり、それを捧げられても全く無意味なことである。
神が人間に求めている事は、心から神に信頼し、神に顔を向け、神と共に歩むこと。
つまり、心が肝心なのだ。
どんな力強い業も、立派な行いも、高価な捧げものも、神の目からすれば、さほど価値はないし、そのようなものは神に必要ではないし、そこまで人間に求めているわけでもない。
砕かれた悔いた心、己の傲慢さに気づき、神の赦しと幸いを信じて平安のうちに生きること、それが神が人間に求めている事柄であろう。
御子イエス様の命をもって成し遂げられた救いの約束に、心からの信頼と感謝とを持って受け取り、平安を携えて生きていきたいものである。