エゼキエル書39章7~8,21~29節、詩篇104篇24~35節、ローマ8章26~27節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル書 39:7 わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。
39:8 このことは到来し、実現する、と主なる神は言われる。それは、わたしが語った日である。
39:21 わたしは国々の間にわが栄光を現し、国々はすべてわたしの行う裁きと、彼らの上に置くわたしの手を見る。
39:22 その日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
39:23 国々は、イスラエルの家がわたしに不信の行為を行ったために捕囚となったこと、また、わたしが顔を隠し、彼らを敵の手に渡したため、彼らは皆、剣に倒れたことを知るようになる。
39:24 わたしは、彼らの汚れと罪に応じて行い、わたしの顔を隠した。
39:25 それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。
39:26 彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。
39:27 わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す。
39:28 わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。
39:29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

ローマ 8:26 同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
8:27 人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。



「なぜ主なる神は私をお見捨てになるのか。いつまで見て見ぬふりをされるのか」などとつぶやきたくなることもあるだろう。
しかし、神様が顔を隠しておられるのではなく、私たち自身が神に背を向け、敵対しているだけなのではないだろうか。
神は御自分を信じ、慕い求めるものに顔を見合わせて下さる。
隠れているように見えるのは、私たち自身が神の方を向かず、自分自身の思いや考えばかりを押し通そうとしているからなのだろう。


イザヤ59:1 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
59:2 むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
59:3 お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ 唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
59:4 正しい訴えをする者はなく 真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り 労苦をはらみ、災いを産む。
59:5 彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。その卵を食べる者は死に 卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。
59:6 くもの糸は着物にならず その織物で身を覆うことはできない。彼らの織物は災いの織物 その手には不法の業がある。
59:7 彼らの足は悪に走り 罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画。破壊と崩壊がその道にある。
59:8 彼らは平和の道を知らず その歩む道には裁きがない。彼らは自分の道を曲げ その道を歩む者はだれも平和を知らない。
59:9 それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ 恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ 輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。


人が正義を追い求めるのは悪いことではない。
けれど、それゆえに、自分の意に沿わない人に対して批判をしたり攻撃したりするのであれば、もはやそれこそ正義ではない。
主なる神様は、神に敵対していたような私たちを憐れみ、本来私たちとは何の関係もない御子イエス様の命を犠牲にし、赦しと救いの御業を成し遂げて下さったようなお方である。
イエス様でさえ、私たちを裁こうとなさらなかったのに、どうして我々が他人を裁く権利など持ち得よう。
私たちは、決して神のような全知全能ではなく、弱く愚かな存在である。
苦しいことも、辛いこともあるかもしれないけれど、何でも自分でなんとかしようとせず、まずは最善を成して下さる主なる神に祈ろう。