創世記8章13~18節、詩篇66篇8~20節、ヨハネ14章27~29節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記 8:13 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。
8:14 第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
8:15 神はノアに仰せになった。
8:16 「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。
8:17 すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
8:18 そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。
8:19 獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。

詩篇 66:8 諸国の民よ、我らの神を祝し 賛美の歌声を響かせよ。
66:9 神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。
66:10 神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。
66:11 あなたは我らを網に追い込み 我らの腰に枷をはめ
66:12 人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して 豊かな所に置かれた。
66:13 わたしは献げ物を携えて神殿に入り 満願の献げ物をささげます。
66:14 わたしが苦難の中で唇を開き この口をもって誓ったように
66:15 肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を 雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。
66:16 神を畏れる人は皆、聞くがよい わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
66:17 神に向かってわたしの口は声をあげ わたしは舌をもってあがめます。
66:18 わたしが心に悪事を見ているなら 主は聞いてくださらないでしょう。
66:19 しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け 聞き入れてくださいました。
66:20 神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく 慈しみを拒まれませんでした。

ヨハネ 14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。



昨日から、ある方と一緒にルターの小教理を学んでいる。
その中で、神様に祈る時、なんでも祈ってもいいけれど、自分の欲望を満たすためとか、自分の都合だけを優先して祈ることは控えたほうがいいということを学んだ。
何を祈ってもいい、けれど、自己中心的な祈りはダメ、となると、やや矛盾しているようだが、何が神の御心に適う事で、何が御心に染むことであるかを人が見分けるのは、なかなか難しい。
完全ではないけれど、ある一定の物差しのようなものがあるとするなら、その祈りを祈ることに平安があるかどうかを見て行くといいかもしれない。
自分が祈っている内容に対し、どこか心に恐れがあったり、わずかでも違和感を覚えるようなところがあるのなら、おそらく自分でも分かっているのだろう。
それが神の御心とは少し違っているかもしれないと。
しかし、祈る時、平安があり、誰に聞かれても問題はないし、むしろ喜ばしい気さえするなら、それはきっと神の御心に適う祈りなのだろう。
だから、私たちは、何を祈ってもいいし、何を行ってもいいけれども、なるべく平安のあるところへ進んでいきたいものである。
なぜならその平安は、神が愛し、神が赦して下さる約束の上に、神から与えられているものだからである。
誰に気兼ねするでもなく、何を恐れるのでもなく、心から安心して祈れる場所、そこにはかならずイエス様がいて下さるからこそ成立するもの。
今日も、心を騒がせず、平安のあるところを歩んでいこう。