出エジプト24章1~11節、詩篇134篇、ヨハネ21章1~14節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト 24:1 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
24:2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
24:9 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。
24:10 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。
24:11 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

詩篇 134:1  都に上る歌。 主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ
134:2 聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
134:3 天地を造られた主が シオンからあなたを祝福してくださるように。

ヨハネ 21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。


ヨハネ福音書の箇所には、復活されたイエス様が三度目に弟子たちに現れた時のことが記されている。
弟子たちは、かつての自分たちの仕事であった漁に出かけてみたものの、何も獲れず、岸に帰ったところ、そこにイエス様がおられた。
しかし、弟子たちにはそれがイエス様だと分からなかったという。
夜が明けたばかりで、まだ周囲が薄暗かったかもしれないが、長い間、いっしょに時を過ごしたイエス様のことが分からなかったとは、それほどに弟子たちの心が空っぽのような状態であったということなのかもしれない。
生きてはいる。
復活されたイエス様にも出会った。
それなのに、イエス様のことが分からないというのである。
人間の意識というのは不思議なもので、そこにイエス様がいるはずがないと思っていると、確かにそこにイエス様がいても気づかないのである。
それは弟子たちに限ったはなしでもなく、我々も普段そういう状態で、ぼんやりと過ごしているということなのだろう。
もし、ここに本当にイエス様がおられたなら、こんなにダラダラと過ごしはしないだろう、などと思う人がいるかもしれない。
しかし、イエス様はいつで私たちと共にいて下さる。
私たちが見えていないだけ、見ようとしていないだけなのであろう。
人生は長いようで、意外と短いかもしれないし、心が呆けたまま時間を無駄に過ごしていると、あっという間に終わりの時がやってくるかもしれない。
与えられた人生を、時間を、何もしていないようでもいいから、イエス様に愛されていること、イエス様と共に歩んでいることを覚えて過ごしていきたいものである。

主よ、私の心の目が開かれて、イエス様がいつも共にいて下さることを悟ることができるよう、何度でも現れて下さい。