雅歌5章9節~6章3節、詩篇16篇、1コリント15章1~11節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

雅歌 5:9 あなたの恋人はどんなにいいひと だれにもまして美しいおとめよ。あなたの恋人はどんなにいいひと こんな誓いをさせるとは。
5:10 わたしの恋しい人は 赤銅色に輝き、ひときわ目立つ。
5:11 頭は金、純金で 髪はふさふさと、烏の羽のように黒い。
5:12 目は水のほとりの鳩 乳で身を洗い、形よく座っている。
5:13 頬は香り草の花床、かぐわしく茂っている。唇はゆりの花、ミルラのしずくを滴らせる。
5:14 手はタルシシュの珠玉をはめた金の円筒 胸はサファイアをちりばめた象牙の板
5:15 脚は純金の台に据えられた大理石の柱。姿はレバノンの山、レバノン杉のような若者。
5:16 その口は甘美、なにもかもわたしを魅惑する。エルサレムのおとめたちよ これがわたしの恋する人、これがわたしの慕う人。
6:1 あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。
6:2 わたしの恋しい人は園に 香り草の花床に下りて行きました。園で群れを飼い、ゆりの花を手折っています。
6:3 恋しいあの人はわたしのもの わたしは恋しいあの人のもの ゆりの中で群れを飼っているあの人のもの。

詩篇 16:1  ミクタム。ダビデの詩。 神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
16:3 この地の聖なる人々 わたしの愛する尊い人々に申します。
16:4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず 彼らの神の名を唇に上らせません。」
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。
16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。

1コリント 15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。


雅歌には、恋人に対して歌った恋の歌が記されているが、美に対する意識というのは、普遍的なものもあれば、民族的であったり、個人的なものもあるだろう。
頭は金で髪の毛は黒というのも、ある人にとっては「美しい」と思えるのかもしれないが、そう思わない人もいるだろう。
かりに、旧約の時代に生きた人たちが、何色にでも髪の毛を染められるような現代の技術や文化を見たならば、たいそう驚くことだろう。
けれど、どんなに綺麗な色に染めてみたところで、それは人工的に作られた色であり、自然が生み出す天然色にはかなわないと言うか、そもそも質が異なる。
神が意図された本来の色か、それとも、無理やり人間が作り変えた人工的な色か、どんなに麗しく見えても、そこに人間の意図が感じられる時、麗しさの質の違いを感じてしまう。
麗しいこと、美しいこともそうだが、喜ばしいこと、大事なこと、大切なことも当てはまるのではないだろうか。
世の中には楽しいことや、素敵なこともたくさんある。
けれど、それらの多くは、人間が作り出したもので、その裏側にある人間の意図が見えてきたときに、途端に興ざめしたり、空しさを感じることがある。
もちろん、人の業にも感動をもたらすものもあるだろうけれど、純粋なものというのは、少ないように思う。
聖書の記者たちは、神がなされた、私たち人間に対する救いの御業がいかに素晴らしいものであるかということを説いている。
そこには、よこしまな思いなど微塵も存在しない。
ただただ神が人間を愛し、救おうとされたことが表されており、福音の言葉として語られている。
伝道者たちの働きも、福音の言葉を聞く人々に救われて欲しい、ただそれだけの理由による。
こうした純粋な動機による働きは、本当に麗しい。

ローマ 10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

主なる神様が御子イエス様の命を犠牲にして私たち人間を救おうとされたことは、ただただ神の愛のゆえであり、その幸いな救いの約束の言葉を宣べ伝えていく宣教の働きも、神の純粋な愛と憐れみのゆえになされていくことである。
地味であっても、宣教の働きが純粋に進められていくことを願うものである。