イザヤ50章4~9節、詩篇70篇、ヘブル12章1~3節、ヨハネ13章21~32節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 50:4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。
50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
50:6 打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
50:7 主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。
50:8 わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい。
50:9 見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち しみに食い尽くされるであろう。

詩篇 70:1  指揮者によって。ダビデの詩。記念。
70:2 神よ、速やかにわたしを救い出し 主よ、わたしを助けてください。
70:3 わたしの命をねらう者が 恥を受け、嘲られ わたしを災いに遭わせようと望む者が 侮られて退き
70:4 はやし立てる者が 恥を受けて逃げ去りますように。
70:5 あなたを尋ね求める人が あなたによって喜び祝い、楽しみ 御救いを愛する人が 神をあがめよといつも歌いますように。
70:6 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。

ヘブル 12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

ヨハネ 13:21 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
13:22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
13:23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
13:24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
13:27 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
13:28 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。


イエス様は、自分の弟子の一人であったユダに裏切られ、売り渡されて、十字架にかけられて殺されることとなっていった。
親しくしていた者に裏切られる気持ちは、どれほど悲しいことであっただろうか。
イエス様に限らず、親しい関係にあった人から、手のひらを返したように批判や攻撃を受けるようになってしまうなら、とても辛いことであろう。
しかし、それは起こりうる。
誰もが熱心で、自分の思うところにあって、一生懸命に生きようとしているからであろう。
こういったことは、残念だが、教会の中にも起こりうる。
熱心であればあるほど、それぞれの主張が食い違ってしまうと、収拾がつかなくなるほど関係が悪化してしまうこともある。
しかし、もう一度原点に返って、そもそも私たちが信じているイエス様とはどういうお方なのかということを思い返したい。
たとえ自分に対して攻撃や迫害がなされたとしても、それに耐え忍び、ついにはそこに赦しと和解をもたらして行かれたお方である。
もちろん、私たちはイエス様ではないから、赦しや和解の業が簡単に成し遂げられるわけではない。
忍耐も必要であろう。
それでも、主イエス様がどういうお方であり、私たちに何を望んでおられるのかということを覚えながら、私たちにできる赦しや和解の道を少しでも探っていきたいものである。
喧嘩しても「ごめんね、これからも仲良くしてね」と言って仲直りするといったことは、子供でもできることなのだから、大人はもっと高尚な赦しと和解の業ができるはずと信じたい。