出エジプト16章27~35節、詩篇95篇、ヨハネ4章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト 16:27 七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
16:28 主はモーセに言われた。「あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。
16:29 よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。」
16:30 民はこうして、七日目に休んだ。
16:31 イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。
16:32 モーセは言った。「主が命じられたことは次のことである。『その中から正味一オメルを量り、代々にわたって蓄えよ。わたしがあなたたちをエジプトの国から導き出したとき、荒れ野で食べさせたパンを彼らが見ることができるためである。』」
16:33 モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、
16:34 アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。
16:35 イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。
16:36 一オメルは十分の一エファである。

詩篇 95:1 主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
95:2 御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
95:3 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。
95:4 深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。
95:5 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
95:6 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。
95:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
95:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
95:11 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

ヨハネ 4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。



イスラエルの民は、かつてエジプトの地で奴隷のような生活を強いられていたが、物資や身の回りのことなどについては、比較的豊かな環境にあったのだろう。
それが荒野へと導かれていったこで、生活は一変し、何もかも足りない過酷な状況になていたことであろう。
民がモーセに向かってぶつぶつつぶやいているのも仕方がないようにも思える。
しかし、主なる神様は、イスラエルの民が生きていくために必要なマナを、命の糧を、荒野に滞在している間はずっとそれを与え続けた。
決して有り余るほど豊かではなかったかもしれないが、彼らは満たされていた。
そして、こうした過酷な環境下にはあったが、それゆえイスラエルの人たちは質素倹約に励み、いざという時のためにも必要な蓄えを整えていくといった堅実な生活スタイルを身に着けていくことができたのであろう。
一般に、イスラエルの人たちには裕福な人が多いと言われているが、こうした歴史を歩んできた中で培われてきた教訓のようなものも大いに役立っているものと思われる。
過酷な環境の下で生きることは、それ自体は辛く苦しいことのように思えるが、そこから学ぶことは多い。
そして、そういう生き方ができることも、豊かさでり、富である。
私たちの生きる世界でも、つぶやきたくなることがあるのも事実だが、そこから何を学び、どう生きていくのかが大切なのだろう。
神を信じ、神の恵みに寄り頼みながら生きていくのか、それとも、あいかわらず不平不満、不足や欠乏を訴え続けて行くのか、どちらかを選ばなければならないのなら、本当に幸いなほうを、神の恵みに信頼し、心に平安がある生き方を選んでいきたいものである。