イザヤ58章1~12節、詩篇51篇、マタイ18章1~7節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 58:1 喉をからして叫べ、黙すな 声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを ヤコブの家に、その罪を告げよ。
58:2 彼らが日々わたしを尋ね求め わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として 彼らがわたしの正しい裁きを尋ね 神に近くあることを望むように。
58:3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず 苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし お前たちのために労する人々を追い使う。
58:4 見よ お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。
58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し 主の栄光があなたのしんがりを守る。
58:9 あなたが呼べば主は答え あなたが叫べば 「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと 呪いの言葉をはくことを あなたの中から取り去るなら
58:10 飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
58:12 人々はあなたの古い廃虚を築き直し あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び 「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。

詩篇 51:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。
51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。
51:20 御旨のままにシオンを恵み エルサレムの城壁を築いてください。
51:21 そのときには、正しいいけにえも 焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ そのときには、あなたの祭壇に 雄牛がささげられるでしょう。

マタイ 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。


ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、自分たちこそ神の言葉を知り、守っていると自負していたが、一方で、律法を守らない者たちを見下し、平気で厳しい裁きを下していた。
その最たる例が、イエス様に対する態度であろう。
彼らは、イエス様が律法に反していると言い掛かりをつけ、ついにはイエス様を殺そうと企むのである。
誰かを殺そうとするということ自体、明確に律法に違反しているというのに、彼らは自分たちは正しいことを行っていると考えていたのであろう。
神の国の民にふさわしい者とはどういう人たちか。
間違っても、律法の言葉を振りかざし、他者を平気で裁き、傷つけ、滅ぼすような人たちではないだろう。
人をいとおしみ、愛し、赦し、共に生きようとする、そういう人こそが神の国の民と言える。
少なくとも、イエス様はそういうお方である。
だから、どんなに正しいことと思えるようなことであったとしても、それで人を傷つけたり、悲しませたり、苦しめてしまっているのなら、それはもはや正しいことではない。
小さな子供たちは、自分たちから誰かに命じたり、人を動かそうとしたりはしないだろう。
子ども達は周りの人たちからの愛と憐れみを受けて生きている。
我々も、神の愛と憐れみを受けて、はじめて生きていると言えるし、隣人同士、人と人とが互いに愛し合い、助け合って生きていくところで、人ははじめて生きていられる。
自分の行動が相手にどう伝わっているのかは分からないが、せめて優しい心を失わないでいたいものである。

フィリピ 2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。