ヨエル2章1~2,12~17節、詩篇51篇3~19節、マタイ6章1~6,16~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨエル 2:1 シオンで角笛を吹き わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
2:2 それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が 山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく これから後も、代々再び起こることはない。
2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。
2:13 衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。
2:14 あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。
2:15 シオンで角笛を吹き 断食を布告し、聖会を召集せよ。
2:16 民を呼び集め、会衆を聖別し 長老を集合させよ。幼子、乳飲み子を呼び集め 花婿を控えの間から 花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
2:17 祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き 主に仕える者は言うがよい。「主よ、あなたの民を憐れんでください。あなたの嗣業である民を恥に落とさず 国々の嘲りの種としないでください。『彼らの神はどこにいるのか』と なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」

詩篇 51:3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。

マタイ 6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」



聖書には、救われるために各々が自分の罪を悔い改めて、神から赦しの約束を頂くことが勧められている。
そのためには、一人一人が真実の姿で神の御前に立つ必要がある。
自分のうちにある悪や過ちを全てありのままに認める必要があるし、偽った姿で赦しを乞うたところで、そんな悔い改めに何の意味もない。
しかし、案外多くの人がそういうことをやってしまいがちである。
誰もが自分のことがかわいいし、自分には甘く、身勝手な態度で「愛の神なら、きっと赦して下さるに違いない」と、神の御前に立つ前に、自分自身で赦してしまうのである。
あるいは、人前で善を行おうとするのも、人に見せるために行っていること自体も問題だが、そいう自分に対して、自分自身で義と宣告し、独りよがりで身勝手な振舞いをよしとしてしまうことによるのであろう。
それらの問題の全ては、真摯に神の御前に立つのではなく、自分自身が義であり、神となっていることにあり、そのことに一人一人が気づかねばならない。
もし、人が真摯に本当の神の御前に立つならば。一瞬で滅んでも仕方がないような者を、神が忍耐して生かして下さっていることを知るだろうし、それがどれほどありがたいことかということも分かれば、横柄な態度で生きることなどできるはずもない。
あるいは、自分が善と思ってやっているようなことも、いかにちっぽけで愚かな考えに縛られて行動しているかということを思い知らされる時、そんなことを誇ろうとしている自分の姿に、情けなさを感じることになるだろう。
人が真摯に本当の神の御前に立とうとするならば、いかに自分がそこに立つのにふさわしくない者であるかということを思い知らされるはずである。
しかし、主なる神様は、そんな私たちのためにとりなして下さるお方、イエス様を与えて下さったのである。
イエス様がいて下さるから、イエス様が命をかけて贖って下さったから、私たちはようやく真摯に神の御前に立つことができるのである。
イエス様を抜きに、いい気になって神の御前に立っているような気分になっていたとしたら、なんと愚かで惨めなことだろう。
イエス様抜きに、私たちの命は存在もしないし、立ち上がることもできないことを覚え、今日もイエス様と共に、イエス様の御翼の陰に立たせて頂こう。