出エジプト6章2~9節、詩篇2篇、ヘブル8章1~7節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト 6:2 神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。
6:4 わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。
6:5 わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
6:7 そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」
6:9 モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。

詩篇 2:1 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか。
2:2 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
2:3 「我らは、枷をはずし 縄を切って投げ捨てよう」と。
2:4 天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り
2:5 憤って、恐怖に落とし 怒って、彼らに宣言される。
2:6 「聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた。」
2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。
2:8 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。
2:9 お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」
2:10 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。
2:11 畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ。
2:12 子に口づけせよ 主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて。

ヘブル 8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、
8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。
8:3 すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。
8:4 もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。
8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
8:6 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。
8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。


聖書には、神がどのようなお方であられるかということが様々な表現で語られている。
まず、エジプトで奴隷の状態となっていたイスラエルの民を救い出された神は、御自分が「主」であられる、と語られている。
もともと「主」という言葉ではなく、オリジナルの神の名が記されていたが、イスラエルの民が神の名をみだりにとなえてはならないとの戒めを守ろうと、この名が記されている箇所を読む際に、音声を発しなかくなったことで、それでは聞いているものに意味が通じなくなるということで、便宜上、主人といった意味を持つ言葉に言い換えて読むようになったものである。
もちろん、聖書の他の箇所で神を表す言葉として、「主人」を意味する単語が用いられているケースも多く、あながち的外れな訳でもないのだろう。
ともかく、イスラエルの民を救い出された神、それが主なる神ということである。
そして、詩篇2篇の箇所では、この神が王として描かれていることが伺える。
王とは、民を支配するものであるが、その支配は苦役や労働をもたらすだけの虐げる王ではなく、民を守り、祝福し、幸いをもたらす、本来あるべき真の王の姿と言えるだろう。
そして、ヘブル書の箇所では、大祭司として、神の御子イエス・キリストが私たちを救うために自らの命をいけにえの犠牲として捧げられ、贖いの御業、救いの御業を成し遂げられたお方であることが語られている。
しかも、その贖いは永遠かつ完全なものであり、もはや私たちの救いのために何ら犠牲や労働と言ったものを要求されることはない。
イエス様こそ、本物の大祭司として、しかも、今もなお、私たちのためにとりなして下さっている。
我らの主なる神様は、真の王であり、まことの大祭司であり、ただただ私たちを救うため、今日も生きておられる。
そのような神を、今日も信じていこう。