申命記23章22~24節、24章10~15節、詩篇119篇9~16節、ヤコブ2章1~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記 23:22 あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。
23:23 誓願を中止した場合は、罪を負わない。
23:24 唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい。
24:10 あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。
24:11 外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。
24:12 もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。
24:13 日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。
24:14 同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。
24:15 賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。

詩篇 119:9 どのようにして、若者は 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。
119:10 心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから 迷い出ることのないようにしてください。
119:11 わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。
119:12 主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。
119:13 あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。
119:14 どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。
119:15 わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。
119:16 わたしはあなたの掟を楽しみとし 御言葉を決して忘れません。

ヤコブ 2:1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2:2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
2:3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
2:4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
2:5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
2:6 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
2:7 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
2:9 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。
2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。


聖書にはいくつもの律法と呼ばれる神の教えられた戒めの言葉が記されている。
それらの戒めは、神の御心を示すものであり、これらの戒めを守ることで、私たちの人生は幸いなものとなるであろうと主なる神は語られている。
しかし、これらの律法の戒めを守りさえすれば救われると考え、律法を守る事だけが目的化してしまうと、それはいわゆる律法主義と呼ばれるものとなってしまう。
何でもルール化、制度化、マニュアル化して、それらにがんじがらめに縛られてしまうのも、律法主義の類と言えるだろう。
日本では、こういったルール化は、おおよそ全体主義に走りやすい。
みんながしているから、とか、全体を統治して管理するには、こういった方法が便利であるからであろう。
一方、聖書に記されているユダヤの人たちはどうであったかというと、全体主義とは反対に、律法を守る者こそが神に救われた者と考えるために、自分たちこそが神に選ばれた特別な者であるといった考え方に傾きがちとなり、そのような考え方は分離主義と呼ばれる。
ファリサイ派というのは分離されたもの、という意味を持つ。
エリート意識を持つものや、特権階級意識を持つものと考えれば分かりやすいかもしれない。
しかし、何のための律法であり、何のための選びなのかということを根本から考えていくならば、そうした考え方が間違っていることは明らかとなっていくだろう。
律法は神の御心を示す指針であり、私たちは律法の戒めを守る事を大切にすべきではあるけれど、それを守り通したからとか、守れなかったからとかによって、私たちの救いが変わるわけではない。
私たちの救いの根拠は、ただただ神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの御業によるものであり、富める者も貧しい者も、知恵のあるなし、力の有無、能力の差など、関係なしに等しく神の恵みによって、その約束を信じる信仰によって救いにあずかることができるのである。
そういう意味では、全ての人が神の国に招かれていると言え、全ての人が神に選ばれたものでありうるのであり、正しい意味で全体主義や分離主義を解釈していくならば、それはとても幸いなことと言えるだろう。

エフェソ4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

力のある者、能力のある者、賜物を持つ者などは、何のためにそれが与えられているのかということを今一度思い返し、互いに支え合い、助け合い、共に生きていくことの幸いを覚えたいものである。