列王下23章1~8,21~25節、詩篇119篇105~112節、2コリント4章1~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王下 23:1 そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を自分のもとに集めた。
23:2 王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。
23:3 それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。
23:4 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、入り口を守る者たちに命じて、主の神殿からバアルやアシェラや天の万象のために造られた祭具類をすべて運び出させた。彼はそれをエルサレムの外、キドロンの野で焼き払わせ、その灰をベテルに持って行かせた。
23:5 王はユダの諸王が立てて、ユダの町々やエルサレム周辺の聖なる高台で香をたかせてきた神官たち、またバアルや太陽、月、星座、天の万象に香をたく者たちを廃止した。
23:6 彼はアシェラ像を主の神殿からエルサレムの外のキドロンの谷に運び出し、キドロンの谷で焼き、砕いて灰にし、その灰を民の共同墓地に振りまいた。
23:7 彼は主の神殿の中にあった神殿男娼の家を取り壊した。そこは女たちがアシェラ像のために布を織っていたところでもあった。
23:8 王はユダの町々から祭司をすべて呼び寄せ、ゲバからベエル・シェバに至るまでの祭司たちが香をたいていた聖なる高台を汚し、城門にあった聖なる高台をも取り壊した。これは町の長ヨシュアの門の入り口にあり、町の門を入る人の左側にあった。

23:21 王はすべての民に命じて言った。「この契約の書に記されているとおり、あなたたちの神、主の過越祭を祝え。」
23:22 士師たちがイスラエルを治めていた時代からこの方、イスラエルの王、ユダの王の時代を通じて、このような過越祭が祝われることはなかった。
23:23 ヨシヤ王の治世第十八年に、エルサレムでこの主の過越祭が祝われた。
23:24 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。
23:25 彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。

詩篇 119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。
119:106 わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。
119:107 わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり 命を得させてください。
119:108 わたしの口が進んでささげる祈りを 主よ、どうか受け入れ あなたの裁きを教えてください。
119:109 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。
119:110 主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
119:111 あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。
119:112 あなたの掟を行うことに心を傾け わたしはとこしえに従って行きます。

2コリント 4:1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
4:2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
4:3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4:4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
4:5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。
4:6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
4:8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
4:9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
4:10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
4:11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
4:12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。



私たちは、この世に生きる間は、どう考え、何を行い、どう生きれば良いのか、常に悩むものである。
そんな時、そもそも私たちは何故生きているのか、生きるとはどういうことなのかということ、つまりは原点となるものをしっかりと考えていく必要がある。
この世の中にそれがあるのなら、それを探すのも良いが、なかなか「これが人生だ」と呼べるようなものはそうは多くなく、あるいは「私に聞け」と力強く語りかけてくるものは、なかなかない。
しかし、聖書の言葉にはそれがある。
なぜならば、聖書の言葉は、この世界を創られた全能の神の言葉だからである。
私たちの命をも創り、守り、生かしておられるのは、この方である。
ならば、どう生きるべきかということを考えるならば、この方に聞くのが良い。
つまり、聖書の御言葉に聞くということである。
私たち人間は、どうあがいても神のようにはなれないし、ちっぽけで愚かな存在でしかない。
しかし、主なる神様は、こんな愚かな人間を愛し、なんと、イエス様の命の代価を支払ってまでして救おうとされたのである。
神様がこんな愚かなものを「滅んでほしくない大切な存在」と思って下さり、命を捨てて贖って下さったのだ。
このことを知ったならば、本当に生きることに幸いを感じることができるだろう。
私たちは、そのような幸いをもたらして下さる救いの約束の言葉を伝えていきたい。
そのための見本となれるのなら、大いに自分の弱さや愚かさも感謝したいし、こんなポンコツな存在を愛し、命がけで救って下さった神を証ししていくものでありたい。